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第9話「お風呂」

リエとリョウスケ編

午後六時十五分、リョウスケは会社を出た。

夕方の打ち合わせが終わって、メールを二、三本返したところで、時計を見た。
六時十五分。
まだ明るかった。

田中課長は、他のプロジェクトのレビューで、席にいなかった。
席にいなかったので、誰にも、何も、言わずに済んだ。
言わずに済んだ、というのは、言えなかった、というのと、似ていた。

リョウスケは、エレベーターを降りて、ロビーを通り抜けた。
外に出ると、空が、まだ、青かった。
夕方の青、と、リョウスケは思った。
最近、夕方の空を、ちゃんと見たことが、なかった気がした。


駅に向かって歩きながら、リョウスケは、考えていた。

——マナ、お風呂、もう入ってるかな。

最近、マナのお風呂の時間を、知らない。
たぶん、七時頃だ。前にリエが言っていた気がする。「七時にお風呂、八時に寝かしつけ」。そう言っていた。
今、六時二十分。
間に合うかもしれなかった。

間に合って、それで、自分が何をするのか、わからなかった。
わからない、と思ったとき、Fuuの声が、頭の中で、なった。
わからなくても、家に、いることはできるよ。

リョウスケは、ちょっとだけ、歩く速度を、上げた。


最寄駅から、家まで、徒歩八分。
リョウスケは、いつもより、少し、急いだ。
急いでいるのに、自分でも、なぜ急いでいるのか、うまく言葉にできなかった。

マンションのエレベーターで、階を上がった。
ドアの前で、いつもなら、鍵を回す前に、すこし、息を整える。
今日も、整えた。
整えたあと、それでも、心臓は、いつもより、すこし、速かった。

「ただいま」

ドアを開けて、声を、出した。
いつもの「ただいま」と、ちょっとだけ、違う「ただいま」だった。
自分でも、それが、わかった。


リビングから、リエの声が、聞こえた。

「……え、はやい」

驚いた声だった。
驚いた、というだけで、嬉しいとも、嫌だとも、判定がついていない、ニュートラルな驚きだった。

「うん、ちょっと、早く出てこられた」

リョウスケは、靴を脱ぎながら、リビングに、顔を出した。
リエは、キッチンの前に立って、何か、洗っていた。
マナは、リビングの床に座って、ぬいぐるみのウサギを、両手で握っていた。

マナが、リョウスケを見た。
しばらく、ぽかんとしていた。
ぽかんとしてから、にっと、笑った。

「ばー」

マナが、言った。

「ばー」
リョウスケも、答えた。

マナが、両手を、リョウスケの方に、伸ばした。
抱っこ、の合図だった。

「お、お、ちょっと待て、手、洗うから」

リョウスケは、慌てて、洗面所に行った。
手を洗いながら、自分の顔が、鏡に、映っていた。
いつもと、同じ顔だった。
同じ顔のはずなのに、なんとなく、ちょっとだけ、見たことのある顔のような気が、した。


リエは、キッチンで、まだ、何か、洗っていた。
振り返らなかった。
振り返らないのが、怒っているのか、ただ手が離せないのか、わからなかった。
リョウスケは、判定しないことにした。

マナを抱き上げて、リビングのソファに、座った。
マナは、リョウスケの膝の上で、ウサギのぬいぐるみを、ぽんぽん、と叩いた。

「マナ、それ、ウサギだなー」

リョウスケは、言った。

「ばー」
「うん、ばー、だな」

会話、にはなっていなかった。
会話にはなっていなかったけれど、たぶん、これで、よかった。
マナの体は、あたたかかった。
最後にマナを抱っこしたのは、いつだったか、思い出せなかった。


「あの、」

キッチンから、リエの声がした。
リョウスケは、顔を上げた。

「もうすぐ、お風呂、入れようと思うんだけど」
「うん」
「……入れる?」

リエは、洗い物をしながら、こちらを見ずに、言った。
声は、平らだった。
平らな声、というのは、たぶん、まだ、どっちにも転んでいい、という声だった。

「うん、入れる」

リョウスケは、答えた。
答えたあと、自分が、即答したことに、ちょっとだけ、驚いた。

「……じゃあ、お願い」
「うん」
「タオル、新しいのが、棚の上から二段目」
「うん」
「お湯、もう、はってある。ぬるめね、マナ用に」
「うん」
「着替えは、脱衣所のかごに」
「うん」

リエが、淡々と、説明していく。
その淡々が、いつものリエだった。
いつものリエだった、ということに、リョウスケは、すこし、ほっとした。


脱衣所で、リョウスケは、マナを脱がせた。

ボタンの留め外しが、思ったより、難しかった。
マナの服のボタンは、小さかった。
指が、太く感じた。

「マナ、じっとしててなー」

リョウスケが言うと、マナは、にこにこしながら、両手を、ばたばた、させた。
じっとしてなかった。
じっとしていなかったけれど、笑っていた。
笑っていたので、リョウスケも、笑った。

ボタンを、ようやく、外し終わった。
オムツも、外した。
ふにゃっと、軽い、裸のマナを、両手で、抱えた。

ふにゃっとした体は、あたたかかった。
心臓の音が、リョウスケの腕に、伝わってきた。
とん、とん、とん、と、速かった。
マナの心臓は、いつも、こんなに速いのか、と、リョウスケは、初めて、知った。


お風呂場のドアを開けて、湯気の中に、入った。

「マナ、お湯、入るよー」

リョウスケは、湯船にゆっくり、マナを下ろした。
マナは、ぴくっと、肩をすくめた。それから、にっと、笑った。
お湯が、好きみたいだった。

リョウスケは、自分の腕でマナを支えながら、片手で、すこし、お湯をすくって、マナの肩に、かけた。
かけてから、ふと、思った。

——マナの体って、こんなに、おおきかったっけ。

まだまだ、小さかった。
手のひらに収まるくらい、小さい。小さいことに、変わりは、ない。
ない、はずなのに、リョウスケが最後にちゃんと抱っこしたときよりも、ずっと、ずっしりしていた。腕にかかる重みが、知っているそれと、違っていた。

お湯の中で、マナが、足を、ばた、ばた、と、動かした。
その足の動きは、思ったより、力強かった。
ぱしゃ、ぱしゃ、と、お湯が、しっかり、跳ねた。

——いつから、こんなに、しっかり、動かせるように、なってたんだろう。

知っていた、はずだった。
毎日、見ていた、はずだった。
でも、自分の手のひらの、すぐ下にある、マナの背中の、その重さと、足の力を、リョウスケは、初めて、ちゃんと、感じた気がした。

目の奥が、すこし、熱くなった。

Fuu、と、リョウスケは、心の中で、呼んだ。
返事は、なかった。
なかったけれど、なんとなく、近くに、いるような気がした。

「マナ、お父さんなー」

リョウスケは、マナに、言った。
誰に、聞かせるためでもなかった。
マナは、にこにこして、お湯を、ぱしゃ、と、叩いた。

お湯が、跳ねて、リョウスケの顔に、かかった。
リョウスケは、笑った。
笑ったあと、自分が、笑っていることに、気づいた。


お風呂から上がって、マナの体を、タオルでくるんで、脱衣所に戻った。
リエが、脱衣所のドアの前に、立っていた。
いつから、立っていたのか、わからなかった。

「……ありがと」

リエが、言った。
声は、まだ、平らだった。
平らだったけれど、ほんの少しだけ、温度が、あった。

「うん」

リョウスケは、答えた。
答えたあと、もう一言、言いたい気がした。
でも、何を言ったらいいのか、わからなかった。

Fuuが、宿題、と言ったやつだった。
まだ、答えは、出ていなかった。

「マナ、よく、笑ってくれた」

代わりに、それだけ、言った。

リエは、リョウスケを見た。
見て、それから、マナを、見た。
マナは、タオルにくるまれて、リョウスケの肩に、頭を、もたれていた。

「……うん」

リエは、頷いた。
頷いて、それから、なにか、言いそうになって、言わなかった。

Fuuは、あなたの話も聞いてみたい。

Fuuに相談してみる