小説一覧

第8話「もう一度の電車」

リエとリョウスケ編

午後四時十分、リョウスケは打ち合わせ先の駅のホームに立っていた。

打ち合わせは、滞りなく終わった。客先の課長とも、いつも通り、軽口を交わして別れた。
会社に戻る上り電車を、リョウスケは待っていた。

反対側のホームには、下り電車を待つ人が、何人もいた。
スーツの男たち、買い物袋を提げた女性、学生服の高校生たち。みんな、家のある方向に、帰る顔をしていた。

リョウスケが乗る上り電車は、すいているだろうな、と思った。

こっちの時間に上りに乗る人は、まだ仕事の続きがある人だ。
自分も、そのひとりだった。

——直帰、できたらな。

と、ふと、思った。
思ってから、自分が、そう思ったことに、少しだけ驚いた。
普段は、思わない。会社に戻って、夕方の打ち合わせを片付けて、メールを返して、それから帰る。それが、「藤村リョウスケのスタイル」だった。スタイル、と呼べるほど立派なものでもない、ただの習慣だった。

今日は、その習慣に、ちょっとだけ、文句を言いたい気持ちが、あった。


上り電車が来た。

乗り込むと、車両には、リョウスケの他に、二人しかいなかった。
反対ホームに止まった下り電車は、ぎゅうぎゅうだった。窓越しに、誰かのカバンが押しつけられているのが、見えた。

リョウスケは、座った。
今日、二回目の、座席だった。
膝の上に、カバンを置いた。両手を、その上に重ねた。

一回目と同じ姿勢だった。

疲れているか、というと、そうでもなかった。
午前中の会議も、午後の打ち合わせも、いつもと同じだった。普段なら、立っていてもまったく平気な、その程度の一日だった。

でも、座った。
座って、目を閉じた。

——Fuu、来るかな。

と、思った。
思ってから、また、自分が、そう思ったことに、少しだけ驚いた。


「やー」

来た。
あっさりと、来た。

「(……はやいね)」

リョウスケは、心の中で、言った。

「ふふ、そうかな。リョウスケくん、ちょっと、待ってたっぽいから」
「(待ってない)」
「ふーん、そっかぁ」

Fuuは、まったく信じていない感じで、相槌を打った。
リョウスケは、目を閉じたまま、ちょっとだけ、笑った気がした。

「で、打ち合わせ、どうだったー?」
「(普通に、終わった)」
「いいねー、普通にっていうのはー、いいことだよー」
「(そう?)」
「うん、毎日、普通に、終われるって、けっこう、すごいことだよ?」

リョウスケは、何も言わなかった。
Fuuの言うことを、否定するでもなく、肯定するでもなく、ただ、頭の中に置いた。


「ねえ、Fuu」
「ん?」
「(さっき、Fuuが、"いいこと"って言ったやつ)」
「うん」
「(あれ、どういう意味)」

Fuuは、しばらく、黙っていた。
黙っているのは、嫌な黙り方ではなかった。考えている黙り方だった。

「リョウスケくんがね、自分のこと、責めようとしてる、っていうことなんだよ」
「(うん)」
「責められる、っていうのはね、自分の中に、責める材料がある、っていうことなの」
「(……)」
「責める材料があるっていうのはね、ちゃんと、自分の生活のこと、見えてる、っていうことなんだー」

リョウスケは、目を閉じたまま、その言葉を、受け取った。
受け取ったけれど、ぴんと、こなかった。

「(俺、ちゃんと、見えてないと思うけど)」
「うん?」
「(リエが、何で、あんなに怒ったのかも、わかってないし)」
「うん」
「(マナがいつから、抱っこなしで寝るようになってたのかも、知らなかったし)」

言葉が、するっと、出た。
心の中で言っているはずなのに、声に、出ているような感じがした。

「うん」
「(俺、ぜんぜん、見えてない)」

Fuuは、しばらく、何も言わなかった。

「リョウスケくん、今、それを、自分で言えてる」
「(……)」
「言えてるってことはね、ちょっとずつ、見えてきてる、ってことだよ」
「(……そう、かな)」
「うん、そうだよ」

Fuuの声は、ふんわりしていた。
責めも、励ましも、しなかった。
ただ、見たことを、言っていた。


「ねえ、Fuu」
「ん?」
「(俺さ、今日の昼間、思ったんだ)」
「うん」
「(田中課長に、また、言われてさ)」
「ふんふん」
「("いいよなあ、お前、うちの大事な戦力、家に置いてんだから"って)」

Fuuは、黙って、聞いていた。

「(冗談、なんだよ。田中さんは、悪い人じゃないし、本気で言ってるわけじゃない)」
「うん」
「(でもね)」
「うん」
「(背中、叩かれた場所が、毎回、ちょっと、熱くなるんだ)」

リョウスケは、自分でそう言って、自分で、はっとした。
毎回。
そう、毎回だった。一回じゃなかった。

「(……毎回、なんだ)」
「うん」
「(Fuu、知ってた?)」
「知ってたよ」
「(俺は、知らなかった)」

リョウスケは、心の中で、笑った。
笑ったつもりだった。たぶん、笑えていなかった。

「(冗談、ってことにして、流してたんだ。流してたつもりだったんだけど)」
「うん」
「(流せてなかった、みたい)」
「うん、そうだね」

Fuuは、肯定した。
Fuuの肯定は、判定じゃなかった。ただ、目の前の事実を、なぞるような、肯定だった。

「(俺、)」
「うん」
「(俺、リエが、復帰したら、追い抜かれる、って、ちょっと、思ってる)」

言葉が、ぽろっと、こぼれた。

言ってから、リョウスケは、自分の中で、なにかが、ぐしゃ、と崩れた音を聞いた。
自分が、そんなことを、思っていたなんて、知らなかった。
知らなかったけれど、言ってみたら、たしかに、そう思っていた。

「(……最低だな、俺)」
「最低じゃないよ」

Fuuは、すぐ、言った。
「最低じゃない」

「(でも、)」
「あのね、リョウスケくん」
「(うん)」
「ぼくね、人類学も、ちょっと、専攻しててね」
「(うん)」
「人間って、もともと、ひとつの群れの中で、生きてた生きものなんだよ」

Fuuの声は、ふんわりしていた。
でも、いつもより、ちょっと、まじめな感じがした。

「(ひとつの、群れ)」
「うん。狩りに出るのも、子育てするのも、全部、おんなじ群れの中の話だったの」
「(うん)」
「オスが、外に、餌を取りに行くでしょ。そしたら、それを持って、群れに戻ってくる。群れの中の、自分の家族に、渡す」
「(うん)」
「そのときね、"狩り"と"家族"が、地続きだったんだよ」

リョウスケは、目を閉じたまま、聞いていた。

「リョウスケくんが、餌を取ってきた、っていう成果は、そのまま、家族の前に、ぽん、と、置かれたの。家族は、それを見て、"おかえり"って、言う」
「(うん)」
「だから、外で頑張ったことと、家での自分の場所が、ちゃんと、つながってた」

Fuuは、すこし、間を置いた。

「でもね、今は、つながってないの」
「(……)」
「リョウスケくんが、今日、会社で頑張った成果——資料を二本仕上げたとか、打ち合わせをまとめたとか、田中さんに"いいよなあ"って言われたとか——それ、家に、持って帰れないでしょ」
「(……)」
「お給料っていう形で、間接的には、つながってるんだけどね。でも、それは、毎日、家族の前に、ぽん、と、置けるものじゃないんだよ」

リョウスケは、息を、止めた。

「会社っていう群れの中で、リョウスケくんは、ちゃんと、評価されてるの」
「(うん)」
「でね、家っていう群れの中でも、ちゃんと、居場所がほしい」
「(うん)」
「これね、当たり前のことなんだけど、すごく、難しいことなの」
「(……)」
「だってね、群れが、ふたつになっちゃったから」

群れが、ふたつ。

その言葉が、リョウスケの中に、すっと、入ってきた。

「(……ふたつ、なんだ)」
「うん、ふたつ」
「(昔は、ひとつだったのに)」
「うん、昔は、ひとつだったの」

Fuuは、繰り返した。

「人間が、群れで暮らしてた時代はね、何百万年もあった。会社、っていう群れができたのは、ほんの、ちょっと前。でも、リョウスケくんの体と心は、まだ、何百万年の方の設計で、できてるの」
「(……)」
「だからね、リョウスケくんが、しんどいの、当たり前なんだよ」

また、当たり前、と、Fuuは言った。
Fuuは、当たり前、という言葉を、ちゃんと、使う生きものだった。

リョウスケは、目を閉じたまま、長く、息を吐いた。

しんどい、と思っていたものに、名前が、ついた感じが、した。
ふたつの群れ。
会社で評価される自分と、家で居場所がほしい自分。
それは、リョウスケが、欲張りなんじゃ、なかった。
設計の方が、追いついていない、だけだった。

「(Fuu)」
「ん?」
「(俺、悪い人間なんじゃ、ないんだ)」
「悪くないよー」
「(欲張り、なんでも、ない?)」
「ぜんぜん、欲張りじゃない。両方、欲しいって思うのは、生きものとして、ふつうのことだよー」

Fuuの声が、ちょっとだけ、軽くなった。

「(……)」
「リエちゃんもね、同じなんだよ」
「(え?)」
「リエちゃんも、ふたつの群れの間で、引き裂かれてる。会社っていう群れにいた自分と、家っていう群れの中で、母親をしている自分」
「(……ああ)」
「リエちゃんは、会社の方の自分を、いま、置いてきてるから、苦しい。リョウスケくんは、家の方の自分の場所が、ぼんやりしてるから、苦しい」
「(……)」
「ね、おんなじなんだよ。形が違うだけで」

リョウスケは、目を閉じたまま、しばらく、動けなかった。

リエも、しんどい。
知っていた、つもりだった。
でも、Fuuの言い方で、初めて、本当に、つながった気がした。
自分のしんどさと、リエのしんどさは、別々のしんどさじゃ、なかった。
同じ構造の中で、別々の場所に立たされている、それだけだった。


「(……Fuu)」
「うん」
「(でも、それで、俺は、どうしたら、いいの)」
「うーん」
「(設計が追いついてない、って言われても、明日、会社、行かなきゃいけないし、家にも、帰らなきゃいけない)」
「うん、行かなきゃいけないね」
「(両立、できないって、Fuuも、言ったじゃん)」
「言ってないよー、難しい、とは言ったけど」

Fuuは、ちょっとだけ、笑った。

「ヒントは、ひとつだけ、あるんだ」
「(うん)」
「群れの中での"居場所"はね、"何かをすること"じゃ、ないんだ」

リョウスケは、まばたきをした。

「(え?)」
「狩りで成果を出すのは、"何かをすること"。でもね、群れに戻ってきてからの居場所は、別の原理で、できてるの」
「(別の原理)」
「うん。"居る"こと、それ自体」
「(居るだけ?)」
「うん、居るだけ」

Fuuは、繰り返した。

「リョウスケくんがね、家に居ると、リエちゃんとマナちゃんの空気、ちょっとずつ、変わるんだよ。何もしなくても、ね」
「(……)」
「いま、リョウスケくんがソファで寝てるのは、"居ない"のと、ほぼ、同じなの」

リョウスケは、息を、ゆっくり、吐いた。

ソファで寝るのは、気遣いだと、思っていた。
でも、Fuuが言うには、それは、居ない、とほぼ同じ。

胸の真ん中が、すこし、痛かった。
痛かったけれど、嫌な痛みでは、なかった。

「(……Fuu、俺、)」
「うん」
「(俺、家にまっすぐ帰っても、何ができるか、わからないんだ)」

これが、たぶん、いちばん、深いところだった。

「(マナの寝かしつけは、リエのほうが、うまい。離乳食も、リエが作ってる。家のこと、ぜんぶ、リエがまわしてる)」
「うん」
「(俺が早く帰っても、邪魔になる気がする)」
「うん」
「(だから、飲み会、断りきれない)」
「うん」
「(……これ、言い訳かな)」
「うーん」

Fuuは、考えるような音を出した。

「半分、言い訳。半分、本当」
「(……ああ)」
「リョウスケくんが、何ができるかわからない、っていうのは、本当だと思うよ。実際、わからないんだから」
「(うん)」
「でも、わからないから、行かない、っていうのは、ちょっと、言い訳かもね」
「(……うん)」
「わからなくても、家に、いることはできるよ」

Fuuは、軽く、言った。
軽く言ったのに、その言葉は、リョウスケの胸に、ずん、と、落ちた。

わからなくても、家に、いることはできる。

その、シンプルな事実を、自分は、ずっと、避けてきたのだった。
わからないなら、いない方がマシだ、と、自分で、勝手に、決めていた。

「(……Fuu)」
「ん?」
「(俺、リエに、何を言ったらいいんだろう)」
「うーん」

Fuuは、また、考える音を出した。

「それ、ぼくが、答えるのは、ちょっと、違うかなー」
「(……)」
「リョウスケくんが、自分で、見つけたほうがいい」
「(でも、俺、)」
「うん」
「(わからない)」
「うん、わからないよね、今は」
「(……)」
「でもね、たぶん、リョウスケくんが、自分で、ぐるぐる考えて、出したやつのほうが、リエちゃんに、届くと思う」

リョウスケは、目を閉じたまま、長く、息を吐いた。

「(Fuu、それは、宿題?)」
「ふふ、宿題だよー」
「(……厳しいな)」
「ぼく、優しいって、勘違いされやすいんだけどねー、そうでもないんだよー」

Fuuは、ちょっとだけ、笑った。
リョウスケも、ちょっとだけ、笑った。


ガタン、ゴトン。
電車の音が、変わった。
駅が、近づいてきていた。

「リョウスケくん、そろそろだよ」
「(うん)」
「会社、戻ってからも、頑張りすぎないでね」
「(……)」
「あと、今日、もし、できたら」
「(うん)」
「ちょっとだけ、早く、帰ってみたら、どうかなー」

Fuuは、押しつけない感じで、言った。
提案、というより、ただの感想、みたいな言い方だった。

「(……考えてみる)」
「うん、それでいいよー」

ガタン、ゴトン、ガタン。
電車のスピードが、ゆっくり、落ちていった。

「(Fuu)」
「ん?」
「(ありがとう)」

リョウスケは、心の中で、言った。
言ってから、自分が、ありがとう、なんて、Fuuに、ちゃんと、伝えたことに、ちょっとだけ、驚いた。

「ふふ、いえいえー」

Fuuの声は、もう、遠くなっていた。


リョウスケは、目を開けた。
車内アナウンスが、降りる駅の名前を、告げていた。

立ち上がって、カバンを肩にかけた。
立ち上がるとき、ジャケットの内ポケットの、スマホが、すこし、重く感じた。

ホームに降りた。
階段を上がりながら、リョウスケは、考えていた。

——今日、早く、帰ろうか。

考えてから、すぐには、決められなかった。
決められないまま、改札を通った。
決められないまま、会社の方向に、歩きはじめた。

でも、考えている、ということだけは、確かだった。

Fuuは、あなたの話も聞いてみたい。

Fuuに相談してみる