第10話「目が合った」
リエとリョウスケ編
リエは、シンクの前で、洗い物をしていた。
リョウスケが、マナを連れて、お風呂場に行ったあとだった。
お湯の音が、ドア越しに、聞こえてきていた。
「マナ、お湯、入るよー」
リョウスケの声が、ふすま越しに、届いた。
リエは、洗い物の手を、止めなかった。
止めなかったけれど、耳は、お風呂場の方を、向いていた。
ぴくっ、という、マナの肩がすくむ気配。
それから、にっと、笑う気配。
ぱしゃ、と、お湯の跳ねる音。
マナの、笑い声。
リョウスケの、笑い声も、ちょっとだけ、混ざっていた。
——あの人、笑ってる。
と、リエは思った。
思ってから、自分が、そう思ったことに、すこし、驚いた。
最近、リョウスケが笑っているところを、ちゃんと見ていなかった気がした。
見ていなかった、というか、自分が、見ようとしていなかった気がした。
ぱしゃ、ぱしゃ、ぱしゃ。
お湯の音が、続いていた。
マナが、お風呂で笑っている。
リョウスケが、その隣で、何か、言っている。
リエには、内容まで聞こえなかった。
聞こえなかったけれど、声の温度は、伝わってきた。
あたたかい温度、だった。
リエは、シンクの前で、しばらく、動かなかった。
手の中の、お皿が、ぬるくなっていた。
ぬるくなっていることに、しばらく、気づかなかった。
お風呂のドアが、開いた音がした。
リエは、ふっと、我に返った。
脱衣所に、行った。
リョウスケが、タオルにくるまれたマナを、抱いて、立っていた。
マナは、タオルからはみ出した足を、ぱた、と、動かしていた。
リョウスケの顔は、湿気で、すこし、赤かった。
リエは、何か、言おうとした。
言おうとしてから、何を言うつもりだったのか、わからなくなった。
代わりに、言葉が、勝手に、出た。
「……ありがと」
言って、自分の声が、ちょっとだけ、いつもより、平らじゃないことに気づいた。
平らじゃない、というのは、ほんの少しだけ、温度がある、ということだった。
「うん」
リョウスケが、答えた。
答えたあと、何か、もう一言、言いそうな顔をした。
でも、言わなかった。
代わりに、別のことを、言った。
「マナ、よく、笑ってくれた」
その瞬間。
リエは、リョウスケの目を、見た。
見てから、リョウスケも、リエの目を、見ていることに、気づいた。
目が、合った。
ほんの、一秒か、二秒。
たぶん、それくらいだった。
「……うん」
リエは、頷いた。
頷いて、それから、なにか、言いそうになって、言わなかった。
言わなかったのは、何を言ったらいいのか、わからなかったからだった。
わからなかったのは、その瞬間、自分の中で、もうひとつ、別の、小さな発見が、起きていたからだった。
マナの寝かしつけの時間になった。
リエが、マナを抱いて、寝室に向かった。
「……俺も、いていい?」
リョウスケが、ぽつん、と、聞いた。
リエは、すこし、振り返った。
振り返って、それから、頷いた。
「……うん」
いいよ、とも、来て、とも、言わなかった。
ただ、頷いた。
でも、リョウスケには、たぶん、伝わった。
寝室の電気は、まだ、つけていた。
オレンジ色の、ぼんやりした、間接照明。
リエが、ベビーベッドにマナを置こうとしたら、マナが、両手を、ぱっと、伸ばした。
「あー!あー!」
マナが、声を、上げた。
リョウスケと、リエの方を、交互に、見ていた。
目が、ぱっちり、開いていた。
寝る顔じゃ、なかった。
「あれ、マナ、ねんねしないの?」
リエが、苦笑した。
マナは、ベビーベッドの柵を、ぴょんぴょん、と、つかんで、立ち上がろうとしていた。
興奮していた。
「パパも、いるからかな」
リエは、マナに、言った。
言いながら、リョウスケの方を、ちらっと、見た。
リョウスケは、すこし、決まり悪そうに、頭を、掻いた。
「……ごめん、興奮させちゃった」
「ううん、いい」
リエは、首を、横に、振った。
それから、マナを、抱き上げた。
「マナ、今日は、こっちおいで」
リエは、大人用のベッドに、マナを、寝かせた。
ベッドの真ん中だった。
それから、リョウスケを、見た。
「……反対側、寝てくれる?」
リエは、言った。
声は、ちょっとだけ、小さかった。
言ってから、自分が、そう言ったことに、すこし、驚いた。
リョウスケも、すこし、驚いた顔をした。
驚いた顔をしてから、すぐに、頷いた。
「……うん」
リョウスケは、ベッドの反対側に、横になった。
マナを、真ん中にして、リエとリョウスケが、両側から、寝る、という形になった。
マナは、ぱあっ、と、笑った。
両手と両足を、ばたばた、と、動かした。
「あー!」
「マナ、ねんねよー」
「あー!」
しばらく、マナは、はしゃいでいた。
リエが、お腹を、とんとん、と、叩いた。
リョウスケも、おそるおそる、マナの足を、軽く、撫でた。
マナの動きが、すこしずつ、ゆるやかに、なっていった。
「……電気、消すね」
リエは、リモコンに、手を伸ばした。
ぱち、と、消えた。
寝室は、暗くなった。
窓の外の、街灯の光だけが、カーテン越しに、ぼんやり、入ってきていた。
暗闇の中で、マナの、ふー、ふー、という、小さな寝息が、聞こえはじめた。
リエは、しばらく、目を開けて、天井を、見ていた。
リョウスケも、たぶん、そうしていた。
二人とも、息を、ひそめていた。
マナの寝息が、深くなった。
リエは、そっと、起き上がった。
リョウスケも、それに、気づいて、起き上がった。
二人は、無言で、マナの顔を、見た。
マナは、ぐっすり、寝ていた。
リエが、寝室から、リビングに、出ていった。
リョウスケも、それに、続いた。
ドアを、できるだけ、静かに、閉めた。
今度は、金具の音は、しなかった。
リビングのテーブルに、リエが、お茶を、二つ、置いた。
冷蔵庫から、何か、つまめるものを、出した。
チーズと、クラッカーと、昨日の残りの、煮浸し。
ありあわせ、と、言えば、ありあわせだった。
「……これ、食べよう」
「うん」
二人は、向かい合って、座った。
しゃべる話は、別に、なかった。
なかったけれど、無言、という感じでも、なかった。
「……眠れる?」
リョウスケが、ぽつん、と、聞いた。
「うーん、わからない」
「俺も」
二人とも、笑った。
笑った、というほどではなかった。
ちょっとだけ、口角が動いた、くらいだった。
でも、それは、たしかに、笑ったのだった。
Fuuは、あなたの話も聞いてみたい。
Fuuに相談してみる