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第7話「電車のFuu」

リエとリョウスケ編

午後二時十分、リョウスケは会社のロビーで、打ち合わせ用のクリアファイルをカバンに入れ直していた。

午前中、社内会議が二つ続いた。そのあと、資料を二本仕上げて、昼は自席でコンビニのおにぎりを食べた。
頭が、重かった。
昨夜、ソファでスーツのまま寝たせいだった。あるいは、ソファで寝たせいだけでは、ないのかもしれなかった。

二時二十分の電車で、客先まで二十分。

駅のホームで電車を待ちながら、リョウスケはぼんやりと、自分の影を見ていた。
影は、いつもより、輪郭がぼやけているように見えた。
春の日差しが、強かったからかもしれない。


電車に乗った。
平日午後の、すいた車内。
リョウスケは、いつもなら、ドアの近くに立つ。二十分くらいなら、立っていたほうが、頭が冴える気がするからだ。

でも、今日は、座った。
座ろう、と決めて座ったわけではなかった。気づいたら、シートの真ん中に、腰を下ろしていた。

足が、重かった。
頭が、重かった。
体が、椅子に吸い込まれた。

——少し、目を閉じよう。

リョウスケは、思った。

寝るつもりは、なかった。
二十分しかないし、降りる駅を間違えるわけにいかない。ただ、目を閉じて、五分だけ、頭を休めよう、と思った。
膝の上に、カバンを置いて、両手を、その上に重ねた。

目を閉じた。


電車が、走る音が、聞こえていた。
ガタン、ゴトン、ガタン、ゴトン。

規則正しいリズムだった。
マナの寝息と、似ているような気がした。

……マナの寝息。

最近、マナの寝息を、間近で聞いていない、と、リョウスケは思った。
リエに、起こすといけないから、と思って、寝室には入らないようにしていた。
寝室に、入らないようにしていた。
入ら、ない、ように、して、いた。

言葉が、頭の中で、だんだん、ばらけていった。

ガタン、ゴトン、ガタン、ゴトン。

まぶたの裏に、白い光が、ぼんやりと、広がった。

「やー」

その声が、聞こえた。

リョウスケは、目を、開けなかった。
開けなくても、見えていた。

まるくて、ピンク色の、ぶたみたいな顔が、白い光の中に、ふわっと、浮かんでいた。

「……?」

リョウスケは、声を、出そうとして、出さなかった。
電車の中だ、ということを、頭の半分が、覚えていた。

——夢、かな。

リョウスケは、心の中で、思った。

「夢でもあるし、夢じゃなくもあるよー」

そのまるいものが、リョウスケの「思った」に、答えた。

「えっ」

今度は、声が、出かけた。
リョウスケは、慌てて、口を閉じた。
まぶたを、ぎゅっと、つむった。

「あ、ごめんごめん、声に出さなくていいよ。電車だもんね」

まるいものは、すこし、笑ったような声を出した。

「ぼくね、Fuuっていうの。Fuu。心の中で、話してくれていいよ」

——Fuu。

リョウスケは、心の中で、繰り返した。

「うん、Fuuだよー」
「……(ほんとに、声に出さなくても、聞こえるんだ)」
「聞こえるよ」

リョウスケは、しばらく、何も思考しなかった。
思考しないようにした、というのと、思考できなかった、というのは、似ていた。


「あのさ、リョウスケさん」
「……(さん、付け、なんだ)」
「あ、ごめん、リョウスケくんでもいい?」
「……(どっちでも)」
「じゃあ、リョウスケくんね」

Fuuは、勝手に決めた。
決めたのに、嫌な感じがしなかった。

「リョウスケくん、今日、ずいぶん、疲れてるね」

Fuuの声は、ふんわりしていた。
ジャッジしない感じだった。
ただ、見たことを、見たまま、言っていた。

——うん。

リョウスケは、心の中で、答えた。
答えてから、自分が答えたことに、驚いた。
会社の人にも、リエにも、「疲れてる」と言われたら、たぶん、「いや、そんなことないよ」と返していた。
でも、Fuuには、「うん」と答えた。

「うん、だよねー」

Fuuは、それだけ言った。
突っ込んでこなかった。
突っ込んでこないことに、リョウスケは、なぜか、ほっとした。

「ねえ、Fuu」
「ん?」
「(きみ、なに)」
「宇宙生物だよ」
「(……)」
「生物学と、人類学が、専攻」
「(そう、なんだ)」
「うん」

夢の論理として、それは、別に、変じゃなかった。
夢では、たまに、そういうことが、ある。

「(……Fuu)」
「ん?」
「(俺、降りる駅、過ごさないかな)」
「あ、大丈夫、ぼくが、ちゃんと起こすから」
「(そう)」
「うん、安心して、目、閉じてて」

リョウスケは、目を閉じたまま、ちょっとだけ、笑った気がした。


「ねえ、Fuu」
「ん?」
「(俺、昨日、)」
「うん」
「(嫁さんと、喧嘩した)」
「うん、知ってる」
「(知ってるんだ)」
「うん、見てた」

Fuuは、悪びれなかった。
悪びれないので、リョウスケも、それ以上、聞かなかった。

「(俺、)」
「うん」
「(俺、悪かったかな)」

心の中で言った言葉が、ちょっとだけ、震えた。
声に出していないのに、震えた。

「うーん」

Fuuは、少し、考えるような音を出した。

「悪かった、かどうかは、ぼくは、判定しないんだよねー」
「(……)」
「ぼく、観察する人だから。判定するのは、苦手」
「(そう)」
「でもね」
「(うん)」
「リョウスケくんが、"悪かったかな"って、今、思えてる、っていうことは、ね」
「(うん)」
「ぼくはね、ちょっと、いいことだと思うよ」

リョウスケは、目を閉じたまま、それを聞いていた。

いいこと、と、Fuuは言った。
悪い、と言われると思った。
悪い、と言われたら、たぶん、自分は、もっと頭を下げる準備が、できていた。
いいこと、と言われて、リョウスケは、どう受け取っていいか、わからなかった。

「(いいこと、ってどういう、)」
「あ、ごめん、ちょっと先回りしすぎたかも」

Fuuは、ちょっとだけ、笑った。

「これね、明日、話そっか」
「(明日?)」
「うん。今日のリョウスケくんは、もうちょっと、休んだほうがいい」
「(……電車、降りるけど)」
「打ち合わせ、行ってきなよ。ぼく、ちょっと、待ってる」

Fuuは、軽く言った。
軽く言ったけれど、その「待ってる」が、不思議と、リョウスケの胸に、残った。


ガタン、ゴトン。
電車の音が、また、聞こえてきた。

「リョウスケくん、そろそろ着くよ」
「(……うん)」
「目、開けて」
「(うん)」

リョウスケは、目を開けた。

車内アナウンスが、ちょうど、駅名を告げていた。
リョウスケは、ゆっくり、立ち上がった。
膝の上のカバンを、肩にかけた。

立ち上がるとき、頭が、ちょっと、軽くなっていた。
二十分前より、軽かった。

窓ガラスに、自分の顔が、映っていた。
いつもの、藤村リョウスケの顔だった。
いつもの顔のはずなのに、なんとなく、ちょっとだけ、見たことのない顔のような気が、した。


電車を降りて、ホームを歩きながら、リョウスケは、空を見上げた。
午後の空は、すこし、霞んでいた。

心の中で、ためしに、呼んでみた。

——Fuu、いる?

返事は、なかった。

でも、なんとなく、いるような気がした。
まだ、近くに、いるような気がした。

「……打ち合わせ、行くか」

リョウスケは、声に出して、言った。
誰にも、聞こえなかった。
聞こえないけれど、自分には、聞こえた。

階段を上がって、改札に向かって歩いた。
歩く足は、まだ、重かった。
でも、さっきほどには、重くなかった。

Fuuは、あなたの話も聞いてみたい。

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