第6話「ガルガル期」
リエとリョウスケ編
Fuuは、ふわっと、白い光の中で、ちょっとだけ大きくなったように見えた。
「あのね、まず最初に言っとくと」
「うん」
「リエちゃんは、おかしくないよ」
リエは、目を閉じたまま、息を、吸った。
吸ってから、自分が、その言葉を、ずっと聞きたかったのだということに、気づいた。
「……おかしくない?」
「うん、おかしくない」
「私、最近、自分でも、なんかおかしいな、って思ってたんだ」
「うん」
「すぐイライラするし、リョウスケのことも、むかつくって、ほんとは思っちゃう日もあるし、マナのことすら、たまに、可愛いって思えない瞬間が、ある」
「うん」
「それで、寝る前にね、自分で、ひどい母親だな、って思って、また眠れなくなる」
「うん」
Fuuは、ただ、うん、と言った。
責めも、励ましも、しなかった。
ただ、聞いていた。
「……それでもね、おかしくないの?」
「おかしくないよー」
Fuuの声は、ふんわりしていた。
「あのね、リエちゃん。ぼくね、生物学が専攻だって言ったでしょ」
「うん」
「哺乳類のメスがね、子供を産んだあとって、しばらく、すっごく警戒モードになるの」
「……警戒モード」
「うん。子供を守るために。脳の中のホルモンの感じが、ちょっと変わってるんだよ。今、リエちゃんの体は、そういうモード」
リエは、まぶたの裏に浮かんでいる、まるいピンク色のFuuを、ぼんやりと見ていた。
「だからね、ちょっとした音とか、ちょっとした気配に、すごくびっくりしちゃうの」
「……」
「他のオスとか、自分の群れの外側に対して、敏感になっちゃうのね」
「……オス」
「あ、ごめんね、生物学の言い方しちゃった。リョウスケさん」
リエは、ちょっとだけ、笑った。
「リョウスケが、群れの外側」
「うーん、ちょっと違うかも。リョウスケさんは、ほんとは群れの内側にいるはずなんだけど、最近、群れの外側からの匂いを連れて帰ってくるんだよね、毎日」
知らない店の匂い、と、リエは思った。
ワイシャツの襟元に、毎日、ついていた。
「だから、リエちゃんの体は、混乱してる。"群れの中の人なのか、外の人なのか、どっちだ?"って」
「……」
「で、それが、夜、いきなりドサッて音を立てて入ってくる。きみの体の警報が、ピーピー鳴る。当たり前なんだよー、それは」
Fuuは、ちょっとだけ、ゆっくり言った。
「当たり前」
「うん、当たり前」
「……当たり前、なんだ」
リエは、もう一度、その言葉を、自分の中で、転がした。
当たり前。
私の体が、当たり前に、そう反応している。
私が、おかしいわけじゃ、ない。
まぶたの裏が、すこし、熱くなった。
「……Fuu」
「ん?」
「もっと、早く、教えてくれればよかったのに」
「ふふ、ごめんねー」
Fuuは、笑った。
リエも、ちょっとだけ、笑った。
笑ったら、まぶたの裏の熱が、ぽろっと、こぼれた。
涙だった。
しばらく、二人とも、何も言わなかった。
マナの寝息だけが、すー、はー、すー、はー、と、聞こえていた。
「……でもね、Fuu」
「うん」
「ホルモンの話、だけじゃない気がする」
「うん」
「私、たぶん、それだけじゃ、ない」
Fuuは、何も言わずに、聞いていた。
「……Fuu、これは、ホルモンのせいじゃないよね」
「うん、ホルモンのせいじゃないと思う」
「やっぱり」
「うん。これはね、リエちゃんが、ちゃんと、考えてきた人だからだよ」
リエは、まばたきをした。
「考えてきた人?」
「そう。自分のキャリアとか、自分のやりたいこととか、ちゃんと、考えてきたから。考えてきた人は、考える材料がなくなると、苦しいの。当たり前に」
また、当たり前、と、Fuuは言った。
「……あのね、Fuu」
「うん」
「ときどき、思っちゃうの」
「うん」
「なんで、私だけ、なんだろう、って」
声は、小さかった。
「リョウスケはね、今までと同じ毎日だよ。会社に行って、仕事して、飲み会に行って、帰ってきて寝る。前と、何も変わってない」
「うん」
「私だけ、変わったの。仕事を休んで、家にいて、夜中に何度も起きて、ご飯作って、洗濯して。なんで、私だけ、なんだろう、って」
言葉が、こぼれていった。
「マナのこと、産むって決めたのは、私たち二人だよ。二人の子供だよ。なのに、なんか、私だけが、私を、置いてきてる」
「うん」
「ひどいよね、こんなこと、思って」
「ひどくないよ」
Fuuは、すぐ、言った。
「ひどくない」
リエは、何も言わなかった。
言えなかった。
「リエちゃんが、考えてきた人だから、思うんだよ。"二人で決めたのに、なんで私だけ"。それは、ちゃんと、対等な関係を、きみが大事にしてきたからだよ」
「……対等」
「うん」
対等、という言葉が、リエの胸に、すこし、刺さった。
刺さって、それから、ゆっくり、解けた。
「……Fuu」
「ん?」
「私ね、仕事、好きだったんだよ」
「うん」
「会議で意見、言って。後輩に教えて。リョウスケと"今日のあれ、面白かったね"って、笑って」
「うん」
「あのころの私、けっこう、好きだったんだ」
リエは、目を閉じたまま、ぽろぽろと、涙を流していた。
拭く気は、起きなかった。
Fuuの前では、拭かなくていい気がした。
「今は、ね、私、誰だろう、って、ときどき、わからなくなる」
「うん」
「マナのママ、リョウスケの妻、それは、本当だよ。本当なんだけど」
「うん」
「"リエ"が、どこにも、いない感じがするの」
Fuuは、静かに聞いていた。
Fuuが静かだということが、リエには、伝わっていた。
「ねえ、Fuu」
「ん?」
「これ、どうしたら、よくなるの?」
「うーん」
Fuuは、少し、考えるような音を出した。
「正直に言うと、ホルモンの方は、時間が経てば、勝手におさまるよ。マナちゃんがもうちょっと大きくなったら、自然に、警報も鳴りにくくなる」
「……そうなんだ」
「うん。でも、もうひとつの方は」
「うん」
「もうひとつの方はね、Fuuにも、すぐにはわからないんだ」
Fuuは、そう言った。
Fuuは、嘘をつかなかった。
「……そっか」
「ごめんねー」
「ううん」
リエは、目を閉じたまま、ちいさく、首を振った。
「謝らなくていい」
「うん?」
「全部、すぐ解決してくれる人、今は、ちょっと、こわい」
「ふふ、そっか」
「うん」
わかってもらえた、ということ。
わかってもらえても、明日の夜、また、マナは夜泣きするし、リョウスケは飲み会から帰ってくる。
それはそれとして、続く。
続くけれど、今、リエの体の中の、いちばん深いところに、ちいさい灯りが、ぽつんと、ついた気がした。
マナが、ふえ、と小さく鳴いた。
目を覚ましかけている。
リエは、ゆっくり、目を開けた。
白い光は、もうなかった。
リビングの天井の、見慣れた染みが、見えた。
「Fuu、いる?」
声に出して、聞いてみた。
返事は、なかった。
でも、なんとなく、いるような気がした。
まだ、近くに、いるような気がした。
「マナー、起きたかー」
リエは、マナの方に、体を向けた。
マナは、ぼんやりと、リエの方を見て、にっと、笑った。
リエも、笑った。
今日、二回目の、笑顔だった。
Fuuは、あなたの話も聞いてみたい。
Fuuに相談してみる