第5話「Fuu、ふたたび」
リエとリョウスケ編
昨日がどんな日であれ、朝は来る。
六時四十分、リエはマナの泣き声で目が覚めた。
いつもより、少しだけ、目が覚めるのが楽だった。なぜだろう、と一瞬考えて、すぐに思い出した。昨日は、マナの寝息のリズムで眠れた。
夢の中に、まるくてピンク色の何かがいた気がした。Fuu、という名前だった気がした。
でも、まあ、夢だ。
リエは起きて、マナを抱き上げた。
リビングのソファで、リョウスケがスーツのまま寝ていた。
起きていた。正確には、起き上がっていなかった。目だけ開けて、天井を見ていた。
リエが寝室から出てくる気配で、リョウスケはソファから体を起こした。
「……おはよう」
「おはよう」
リエは、マナを抱いたまま、それだけ言って、キッチンに向かった。
リョウスケは、しばらくソファに座っていた。それから、立ち上がって、洗面所に行った。
昨日のことは、二人とも、何も言わなかった。
言わなかった、というのと、言えなかった、というのは、似ていた。
七時半、リョウスケはシャワーを浴びて、シャツを着替えて、コーヒーをマグで一杯飲んで、出ていった。
「行ってきます」
「いってらっしゃい」
いつもと同じ言葉だった。いつもより、少しだけ、温度が低かった。
マナだけが、リョウスケに「ばー」と笑った。リョウスケも、マナに、ちょっとだけ笑い返した。
ドアが閉まった。
リエは、台所のシンクの前で、しばらく立っていた。
リョウスケのマグカップが、洗いかごに、伏せて置かれていた。
昨日までは、流しに置きっぱなしだった。
……今日は、伏せてある。
リエは、それを見て、何か言葉にしようとして、できなかった。
ただ、蛇口を開けて、自分のマグカップを洗った。
午前中、マナの機嫌が悪かった。
いつもなら笑う絵本に、今日は反応しなかった。離乳食も、半分残した。床にハイハイしながら、ふえ、ふえ、とよく鳴いた。
「マナ、どうしたー」
リエは、マナを抱き上げた。
マナはリエの肩にぴったりと顔をつけて、しばらく動かなかった。
昨日、夜に起きてしまったから、と思った。
寝不足、と思った。それは、たぶん、半分は当たっていた。
もう半分について、リエは、まだ、考える元気がなかった。
十三時、いつもより早く、マナはぐったりと眠ってしまった。
床に敷いたベビー布団の上で、両手を広げて、ぐーぐーと寝息を立てた。
リエは、その隣に、座り込んだ。
座り込んで、マナの寝顔を、しばらく見ていた。
マナの寝顔は、可愛かった。
可愛かったけれど、リエの体は、もう、立ち上がる力がなかった。
洗濯物を畳まなくちゃ、と思った。
離乳食の作り置きをしなくちゃ、と思った。
お米を、研いでおかなくちゃ、と思った。
思いながら、リエは、マナの隣に、横になった。
横になっただけ、と思った。
五分だけ、と思った。
すー、はー、すー、はー。
マナの寝息が、聞こえた。
昨夜と、同じリズムだった。
リエの呼吸も、また、そのリズムに、引き込まれていった。
まぶたの裏に、白い光が、ぼんやりと、広がった。
「やー」
その声が、聞こえた。
リエは、目を閉じたまま、笑った。
「……来た」
「来たよー」
まるくて、ピンク色の、ぶたみたいな顔が、白い光の真ん中で、ゆらゆらと浮かんでいた。
「夢じゃ、なかったんだ」
「夢でもあるし、夢じゃなくもあるよ」
「……どっち」
「どっちでも、いいんじゃないかなー」
Fuuは、笑った。たぶん、笑った。
「で、リエちゃん、今日はどう?」
「……ちゃん、ってつけるの?」
「あ、いやだった?」
「ううん。ひさしぶりに、ちゃんづけで呼ばれた」
「ふふ」
リエは、横になったまま、Fuuに話しかけていた。
話しかけている、という感覚は、不思議と、なかった。
Fuuは、自分の頭の中にいた。頭の中にいるのに、ちゃんと、外にいる誰かと話している感じが、した。
「Fuu」
「ん?」
「私、最近、変なんだ」
「うん、見てた」
「……見てた、って」
「だから、観察させてもらってたって、言ったでしょ」
Fuuは、悪びれなかった。
「いつから?」
「うーん、ちょっと前から。ぼくね、地球のいきものを観察するのが仕事だから」
「……仕事」
「そう、仕事」
仕事、という言葉が、なぜか、リエの胸に、すこし刺さった。
「あのね、リエちゃん」
「うん」
「昨日のさ、最後にきみが言ったこと、覚えてる?」
「……」
「"私、なんで、あんなに、怒ったんだろう"」
リエは、目を閉じたまま、頷いた。
「それ、今日、話す、って約束したじゃん」
「……うん」
「話していい?」
Fuuは、聞いた。
答えを待つ、聞き方だった。
リエは、しばらく、答えなかった。
答えなかったのは、嫌だったからではなくて、答えるための言葉を、自分の中で探していたからだった。
「……うん」
リエは、答えた。
「うん。……話して」
Fuuは、あなたの話も聞いてみたい。
Fuuに相談してみる