第3話「真夜中の衝突」
リエとリョウスケ編
ドサッ。
その音は、薄い壁を一枚隔てた向こうで鳴った。
リエは、寝室のベッドの端に座っていた。
マナを寝かしつけて、立ち上がる気力もなくて、そのまま座っていた。何分そうしていたのか、自分でもよく分からなかった。
ようやく、ようやく、マナが寝た——その安堵が、まだ体の中で温度を保っていたところだった。
ドサッ、という音が、その温度を、一瞬で凍らせた。
ベビーベッドの中で、マナが、ふえ、と声を上げた。
「……っ」
リエは、息を止めた。
止めて、祈るように、マナの寝顔を見た。
ふえ、ふえ、ふぇーーーん。
マナの泣き声が、夜の部屋に広がっていった。
「マナ、マナ、大丈夫だよ、ねんねしよ、」
リエは、マナを抱き上げた。マナの体は、さっきまでとは違って、もう力が入っていた。背中を反らせて、両手を空に向けて、声を上げて泣いていた。
肩にマナを乗せて、とんとん、と背中を叩いた。
止まらなかった。
リエの中で、なにかが、ぱち、と音を立てた。
寝室のドアを開けた。
リビングに、リョウスケが立っていた。
玄関と廊下の境目で、足元には、ぼてっと置かれた仕事のカバンがあった。
リョウスケは、リエとマナを見て、ぽかんとしていた。状況を、まだ把握していない顔だった。
「……ねえ」
リエの声は、自分でも知らない声だった。
「……ねえ、何してるの?」
「あ、いや、ごめん、今帰って」
「カバン、置いた音」
「え?」
「カバン、ドサッて、置いたでしょ」
「あ、」
リョウスケが、足元のカバンを見た。それから、リエとマナを見た。
「あ、ごめん、起こした?」
「起こした?じゃないよ」
マナは、リエの肩で、ぐすぐすと泣き続けていた。
リョウスケは、おそらくよかれと思って、両手を伸ばした。
「あ、俺が抱っこ——」
「いい」
リエの声は、自分でもびっくりするくらい、低かった。
「いい。あなたが今、抱っこしても、寝ない」
リョウスケの伸ばした手が、宙で止まった。手の置き場所を探すように、ゆっくり下ろされた。
「……ごめん」
「いつもそう」
「え?」
「いつも"ごめん"。それで、明日もまた遅いんでしょ」
「いや、明日は」
「明日は?」
「……まだ、分からないけど」
「ほら」
リエは、笑った。笑ったつもりだった。たぶん、笑えていなかった。
リョウスケは少し息を吸った。今夜、ずっと胸に置いていた何かを、ようやく出そうとしていた。
「……俺だって、好きで毎日遅くなってるわけじゃないよ」
言葉が、リビングの空気に置かれた。
——うん、知ってる。
リエは、心の中で言った。
言ったのに、口から出てきたのは、別の言葉だった。
「リエ、」
「知ってるよ」
リョウスケが言いかけたのを、遮るように。
「仕事でしょ。私だって同じ会社にいたんだから、分かるよ。今、来期に向けて忙しい時期なのも、田中さんが飲み会大好きなのも、全部分かる」
「うん、」
「全部、分かってる」
分かってる、を、リエは心の中でもう一度言った。
何が分かってて、何が分かっていないのかは、分からなかった。
「分かってるから、何にも言ってこなかったんだよ。今日まで」
リョウスケは、口を開けて、閉じた。
「リエ、」
「ねえ、リョウスケ、私が今日、誰と喋ったと思う?」
唐突な問いに、リョウスケは、答えられなかった。
「児童館のママ友と、当たり障りのない話。スーパーのレジの人に、すみません、って一回。あとは、マナ」
「うん、」
「マナ、まだ、"あー"と"うー"しか言わないよ」
言ってから、リエは、自分の声に、自分で打たれた。
リョウスケは、何も言わなかった。何も言えなかった、というほうが、近かった。リエが言った「あーとうー」が、彼の中で、自分が想像していたよりずっと深いところまで、落ちていった音がした。
「……リエ、」
「ううん、もういい」
「俺、」
「いいから」
リエの声から、力が、ふっと抜けた。
「マナ、寝かせてくる」
「……」
「あなたは、好きにして」
リエは、リョウスケの目を見ずに、寝室に戻った。
ドアを、できるだけ静かに、閉めた。
静かに閉めようとしたのに、最後に、かちん、と金具が鳴った。
リビングに、リョウスケだけが残った。
足元のカバンを、ゆっくり持ち上げて、ソファの横に置いた。
持ち上げる動作を、何度も練習してきた人みたいに、慎重だった。
ソファに座った。
座って、しばらく、何も考えなかった。
考えないようにしている、というのと、本当に考えられない、というのは、似ていた。
今のリョウスケは、たぶん、その両方だった。
テレビのリモコンが、視界に入った。
手を伸ばして、握った。電源ボタンに親指を当てて——止めた。
音が、寝室に届く。
リモコンを、そっと戻した。
「……お風呂」
声に出してみた。
声に出してみたら、お風呂に入る気力が、自分には残っていないことに気づいた。
ネクタイを緩めた。
ジャケットだけ脱いで、ソファの背もたれにかけた。
スーツのまま、ソファに、ぼすん、と横になった。
天井を見た。
リビングの灯りは、つけっぱなしのままだった。
消そうと思ったけれど、立ち上がる気力もなかった。
マナの泣き声は、もう、聞こえなかった。
寝室から、何の音もしなかった。
——ごめん。
リョウスケは、心の中で言った。
誰に言ったのか、自分でもよく分からなかった。
目を閉じた。
五分だけ、と思った。
五分だけ、と思ったまま、リョウスケは眠ってしまった。
寝室のベッドで、リエはマナを胸に抱いたまま、目を閉じていた。
マナはもう、寝息を立てていた。
リエだけが、起きていた。
「マナ、まだ"あー"と"うー"しか言わないよ」と言ったときの、自分の声が、まだ耳の奥で鳴っていた。
あの言葉は、どこから出てきたんだろう、と思った。
窓の外を見た。
カーテンの隙間から、月が見えた。
やけに、大きかった。
Fuuは、あなたの話も聞いてみたい。
Fuuに相談してみる