第2話「リョウスケの一日」
リエとリョウスケ編
六時五十分、目覚ましが鳴る前にリョウスケは目を開けた。
寝室のドアの向こうから、マナの泣き声が聞こえた気がしたからだ。
しばらくじっとしていた。泣き声は止まった。代わりに、リエが「はいはい」と言う声が、ふすま越しに聞こえた。
リョウスケは、布団から出て、寝室の前を通らずにリビングへ抜けた。
昨日も、その前の日も、寝室には入らなかった。
飲み会で帰りが遅くなったとき、ドアを開けてリエとマナを起こしてしまったことが、何度かあった。それからは、ソファで寝るようになった。気を遣っているつもりだった。
ただ、それが正解なのかどうかは、自分でも分からなくなってきていた。
七時四十分、家を出る前に、リョウスケはリビングの入口から声をかけた。
「行ってきます」
キッチンでマナにごはんをあげているリエが、振り返らずに「いってらっしゃい」と言った。
マナだけが、リョウスケの方を見て「ばー」と笑った。
「マナ、いい子にしててね」
リョウスケは、靴を履きながら、ちょっとだけ笑った。
ドアを閉めるとき、背中の方で、リエがマナに「はい、あーん」と言うのが聞こえた。
その声の温度は、たぶん、自分に向けられていたものより、ずっと柔らかかった。
九時、出社。
エレベーターで、課長の田中とばったり一緒になった。
「お、藤村、今日も眠そうだな」
「あー、まあ、子供がいるとどうしても」
「そうかそうか。奥さんは元気?」
「はい、おかげさまで」
扉が開いて、二人で部署のフロアに歩いていく途中、田中はにっと笑った。
「お前さあ、いいよなあ。うちの大事な戦力、家に置いてんだから」
「いやあ、」
「藤村さん家、共働きで来年復帰だろ?それまでお前が稼がないと。しっかり頼むよ?」
ぱん、と背中を叩かれた。冗談の温度だった。
冗談の温度だったので、リョウスケも「はい、頑張ります」と笑った。
笑ったあとで、背中の叩かれたところが、少しだけ熱を持っているような気がした。
午前中、会議。午後、客先。夕方、戻って資料作成。
仕事は嫌いではない。むしろ、好きだった。
動いている時間は、自分が「藤村リョウスケ」でいられた。誰々の夫でも、誰々のパパでもなく、ただの自分でいられた。
十八時三十分、課のメンバー数人で「軽くいこう」という流れになった。
軽くいこう、は軽くなったためしがない、ということを、リョウスケは知っていた。
知っていたけれど、ことわらなかった。
断りづらい雰囲気もあったし、それ以上に、自分が今、家にまっすぐ帰ったとして、何ができるのか分からなかった。
スマホを開いて、リエにLINEを打った。
〈ごめん、今日も遅くなる。先食べてて〉
送信ボタンを押す前に、少しだけ迷った。「今日"も"」の"も"を、消そうかと思った。
消したら、なかったことになる気がした。だから、消さずに送った。
既読がついた。返信はなかった。
なかったけれど、来ないだろうな、とは思っていた。
居酒屋。乾杯。仕事の話、上司の愚痴、来期の目標。
リョウスケはハイボールを二杯飲んで、三杯目はウーロン茶にした。
昔は何杯でも飲めた。今は、明日のマナの泣き声を考えると、肝臓よりも睡眠が惜しかった。
二次会の話が出たとき、リョウスケは立ち上がった。
「すみません、自分、今日はここで」
「お、藤村、もう帰るのか?」
「はい、ちょっと」
「奥さんに怒られるか?」
田中課長が、にやっと笑った。
他のメンバーも、ちょっと笑った。
リョウスケも、笑った。
「いやー、まあ」
うまい返しが思いつかなかったので、頭を下げて、店を出た。
二十二時十二分、最寄駅。
駅から家までは徒歩八分。リョウスケは、ゆっくり歩いた。
別に、急いで帰る理由が、あるようで、なかった。
マナはもう寝ているだろう。リエも、たぶん寝ているか、寝かけているか、だ。
帰っても、誰もこちらを見てくれない、ということを、リョウスケは責めているわけではなかった。当たり前だ。マナは赤ちゃんだし、リエは疲れているし。当たり前だ。
当たり前だ、と何度も自分に言いながら、リョウスケは家までの夜道を歩いた。
マンションの入口で、上を見上げた。
自分の家の窓は、もう暗かった。
二十二時二十六分、玄関のドアを、できるだけ静かに開けた。
「ただいま」
小さな声で言った。返事はなかった。リビングの灯りだけが、つけっぱなしになっていた。
リエが、つけておいてくれたのだろうか。それとも、消し忘れただけなのだろうか。
どちらだとしても、リョウスケはなんとなく、その灯りに少し、救われた。
靴を脱ぎながら、肩のカバンに手をかけた。
明日の資料が入っていた。重かった。
一日、よく頑張った、と自分に言いたかった。
言いたかったことに、自分でも、少しだけ気づいていた。
Fuuは、あなたの話も聞いてみたい。
Fuuに相談してみる