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第1話「リエの一日」

リエとリョウスケ編

マナが泣いている。

時計を見る前に、リエは反射で起き上がっていた。四時十二分。窓の外はまだ暗い。

「はいはい、どうしたー」

声は出るのに、頭は半分眠ったままだった。マナを抱き上げて、肩のあたりに頬を当てる。少し熱い気がした。気のせいかもしれなかった。最近は、何でも気のせいかもしれなかった。

隣のベッドに、リョウスケはいなかった。
昨日も飲み会だった。今日もたぶん、飲み会だ。

深夜、玄関のドアが開く音はした。シャワーの音もした。それから、足音は寝室には来なかった。リビングのソファで寝ているのだろう、と思った。気を遣ってくれている、のだとも思う。思うけれど。

マナを抱いたまま、リエは少しだけ、寝室のドアを見た。


六時半。マナはまた寝た。リエは寝なかった。

寝ようとすると、洗濯機を回す音が聞こえた気がして、起きた。実際には回していなかった。最近、こういうことがよくある。

キッチンで湯を沸かす。インスタントのコーヒーを淹れて、一口飲んで、忘れる。三十分後に冷めたのを発見して、レンジで温め直して、また忘れる。

スマホを開く。育休前のグループLINE。後輩の佐々木が、新しい案件を取った話で盛り上がっていた。
「リエさんに教わった通りやったら通りました!」
スタンプがいくつか並ぶ。

リエは「おめでとう!!」と打って、絵文字を三つ付けて、送信した。
送信したあと、スマホを伏せて置いた。

嬉しいのは本当だった。
嬉しいのは本当だったし、それと同時に、胸の奥に小さい石が落ちた音もした。両方とも本当だった。


午前中、児童館に行った。
同じ月齢の子のママたちと、当たり障りのない会話をした。離乳食、夜泣き、保育園の話。みんな優しい。みんな優しいのに、帰り道、リエは少しだけ息苦しかった。

ベビーカーを押しながら、信号待ちで思った。
——私、最後に自分のことだけ考えて喋ったの、いつだっけ。

マナがベビーカーの中で、機嫌よく足をバタバタさせていた。リエは、そのまるい頬を見た。

「マナ、可愛いねえ」

可愛い、は本当だった。
それも、本当だった。


昼、マナが寝た隙に、洗濯物を畳んだ。リョウスケのワイシャツが何枚か。襟元に、知らない店の匂いがついていた気がした。気のせいかもしれない。

夕方、買い物。離乳食用の鶏ささみと、自分のための菓子パン。スーパーのレジで、レジ袋いりますか、と聞かれた。「いえ、大丈夫です」と答えた瞬間、エコバッグを家に忘れたことを思い出した。

「あ、すみません、やっぱり、」
「あ、はい、五円になりますー」

なんでもないことだった。
なんでもないことのはずだった。

帰り道、ベビーカーを押しながら、リエは少しだけ泣いた。
泣いている自分に、自分でびっくりした。


十八時四十二分、LINEが来た。

〈ごめん、今日も遅くなる。先食べてて〉

既読をつけた。返信は打たなかった。打とうとして、何を打っていいか分からなかった。
「了解」と打てば嘘になる。「またなの?」と打てば、きっと喧嘩になる。
結局、何も打たなかった。

マナにごはんをあげて、お風呂に入れて、寝かしつけた。
寝かしつけながら、リエは天井を見ていた。

——私、今日、何を喋ったっけ。

マナの「あー」と「うー」と、児童館の「そうですよねー」と、レジの「すみません」と、それくらいだった。

仕事をしていた頃の自分が、遠かった。
会議で意見を言って、後輩に何か教えて、リョウスケと「今日のあれ、面白かったね」と話した、あの頃の自分が、誰だったか思い出せないくらい、遠かった。

マナが、ぐずった。
目を閉じたまま、ふえ、と小さく声を上げて、ふにゃふにゃと手を伸ばしてくる。

「ママ、だっこ」

最近は、抱っこしなくても眠るようになっていた。背中をとんとんすれば、それで寝てくれる子だった。少しずつ、少しずつ、ひとりで眠れるようになっていた。
今日は、ちがった。

「はいはい、抱っこね」

リエは、マナを抱き上げた。マナは、リエの首のあたりにぴったりと顔をくっつけて、また、ふえ、と小さく鳴いた。

暗くて、狭い寝室を、ゆっくり歩いた。
ベビーベッドと、大人用のベッドと、その間のわずかな隙間。三歩で行き止まり、また向きを変えて、三歩で行き止まり。窓の外の街灯が、ぼんやりとカーテン越しに揺れていた。
マナの体は、あたたかかった。あたたかかったけれど、肩がだんだん痛くなってきた。

十分、十五分、二十分。
同じ三歩を、何度往復したか分からなかった。
マナの息が、ようやく深くなった。

リエは、息を止めるように、そっとベッドにマナを下ろした。
手をそっと離す。布団をかける。マナは動かなかった。
寝た。

「……寝た」

声に出すと、自分の体から、ふっと力が抜けた。
ベッドの端に座って、しばらく、動けなかった。

時計を見たら、二十二時を少し過ぎていた。

Fuuは、あなたの話も聞いてみたい。

Fuuに相談してみる