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第11話「対話」

リエとリョウスケ編

「……あのさ」

リョウスケが、ぽつん、と、口を、開いた。

チーズが、もう、半分、減っていた。
お茶も、ぬるく、なっていた。

「うん」

リエは、顔を上げた。

「変な話、していい?」
「……うん」

リエは、頷いた。
頷いてから、自分も、変な話を、する準備が、できているような気がした。

リョウスケは、お茶のカップを、両手で、握った。
握った手が、すこし、固かった。

「俺、最近、変な夢、見るんだ」

「……」

リエは、息を、止めた。

「電車の中とか、ふと、目を閉じたときに、見る」
「……うん」
「ピンク色の、ぶたみたいな、まるい奴が、出てきて」

リエは、目を、見開いた。
目を見開いたのを、リョウスケが、見た。

「リエ……」
「……Fuuって、いう?」

リエの声は、ちょっとだけ、震えていた。

リョウスケは、固まった。
しばらく、固まってから、ゆっくり、頷いた。

「……Fuu」
「うん、Fuu」

二人とも、しばらく、何も言わなかった。
しばらく、お互いの顔を、見ていた。

冷蔵庫の、ぶーん、という音が、聞こえていた。
寝室からは、何の音も、しなかった。

「……俺だけ、じゃなかった」

リョウスケが、ぽつん、と、言った。

「私だけ、じゃなかった」

リエも、言った。

二人とも、笑った。
今度は、ちゃんと、笑った。
すこし、目に、涙が、にじむような、笑いだった。


リエが、先に、話した。

「私はね、夜、マナを寝かしつけたあとに、Fuuが来た」
「うん」
「最初は、夢だと思った。次の日、昼寝のときに、また、来てね」

リョウスケは、うなずきながら、聞いていた。

「Fuu、私に、なんて言ったと思う?」
「……」
「リエちゃんは、おかしくないよ、って」

言いながら、リエの目に、また、涙が、にじんできた。
今度は、隠さなかった。

「私ね、自分のこと、最近、ずっと、おかしいって思ってたんだ」
「……」
「すぐイライラするし、リョウスケのこと、むかつくって思っちゃう日もあるし、マナのことすら、可愛いって思えない瞬間が、ある」
「……」
「自分が、ひどい母親だって、夜、ずっと、自分を責めてた」

リョウスケは、何も言わなかった。
ただ、聞いていた。

「Fuuがね、生物学的には、当たり前だって、言ったの」
「……うん」
「赤ちゃんを産んだあとはね、ホルモンの感じが変わって、警戒モードになるんだって。哺乳類のメスは、みんな、そう」
「……」
「リョウスケが帰ってくる音とか、匂いとか、全部、私の体が、警報、鳴らしてたみたい」
「……俺、悪い匂い、してた?」

リョウスケが、半分、冗談で、言った。
半分、本気だった。

「ううん、悪い匂いじゃ、ない。ただ、外の匂いだった」
「……外の」
「うん。職場の人と、知らない店の匂い。それが、私の体には、群れの外側の匂いに、なっちゃってたみたい」

リョウスケは、自分のシャツの襟元を、ちょっと、つまんだ。
今日のシャツは、お風呂の前に、着替えていた。
でも、昨日までのシャツは、いつも、夜、リエが畳んでいた。

「……ごめん」
「ううん、悪いのはリョウスケじゃ、ないの」

リエは、首を、横に振った。

「悪いのは、誰でも、ない」
「……」
「ただ、私の体が、そういう仕様になってるだけ。それを、私が知らなかっただけ」

リエは、言いながら、自分でも、整理できていく感じが、した。
Fuuに話してもらったことを、自分の口で、リョウスケに、話す。
それで、ようやく、自分のものになる感じが、した。


「もうひとつ、あるんだ」

リエは、続けた。

「私、最近ね、自分が、消えてく感じがしてた」
「……消えてく」
「マナのママ、リョウスケの妻、それは、本当だよ。それは、嘘じゃない」
「うん」
「でも、"リエ"が、どこにもいない感じがするの」

リョウスケは、息を、ひとつ、吸った。

「育休に入って、仕事のグループLINEが流れてくるたびに、置いていかれる感じがする。佐々木が、案件取って、嬉しいよ。嬉しいんだけど、嬉しいだけじゃない」
「……」
「私、考えてきた人、なんだって、Fuuが言ってくれた」
「うん」
「考えてきたから、考える材料がなくなると、苦しいんだって」

リョウスケは、テーブルの上で、両手を、組んだ。
組んだ手が、すこし、震えていた。

「……俺もさ」

リョウスケは、ゆっくり、言った。

「俺も、Fuuに、聞いた」
「うん」
「俺、田中課長に、毎回、背中、叩かれて、"いいよなあ、お前、戦力、家に置いてんだから"って、言われててさ」
「……」
「冗談だって、流してたんだけど、流せてなかったんだ」
「……」
「俺、リエが、復帰したら、追い抜かれるって、ちょっと、思ってる」

リョウスケは、リエの目を、見た。
見ながら、言った。
逃げずに、言った。

リエは、しばらく、何も、言わなかった。
言わなかったけれど、リョウスケから、目を、そらさなかった。

「……そっか」
「ごめん」
「ううん、謝ることじゃ、ない」

リエは、ゆっくり、首を、横に振った。

「正直で、ありがとう」

リョウスケは、すこし、目を、伏せた。


「Fuuがね、人類学の話を、してくれたんだ」

リョウスケは、続けた。

「人間って、もともと、ひとつの群れの中で、生きてた、って」
「……うん」
「狩りに行って、餌を取ってきて、群れに戻る。そのとき、家族の前に、ぽん、と、置く。家族は、それを見て、おかえり、って言う」
「……」
「狩りと、家族が、地続きだったんだって」

リエは、頷いた。

「でも、今は、つながってないんだ」
「……うん」
「俺が、会社で、何をしてきたか、リエとマナの前に、ぽんと置けないでしょ」
「……」
「お給料っていう形で、間接的には、つながってるけど、毎日のことじゃ、ない」

リエは、何度か、まばたきをした。

「会社っていう群れの中で、俺は、ちゃんと、評価されてる。でも、家っていう群れの中での、自分の場所が、ぼんやりしてた」
「……」
「群れが、ふたつになっちゃったから、って、Fuuは言ってた」

リエは、ゆっくり、息を、吐いた。

「……ふたつの、群れ」
「うん」

リエの中で、何かが、つながっていく感じが、した。
Fuuは、リエに「群れの内/外」の話をしていた。
リョウスケには、「ふたつの群れ」の話をしていた。
それは、別々の話のようで、同じ話だった。

「私たち、おんなじだったんだね」
「……うん」
「形は、違うけど」
「……うん」

二人は、しばらく、黙った。
黙っていたけれど、苦しい黙りでは、なかった。


「あのさ、リエ」

リョウスケが、口を、開いた。

「うん」
「俺、ソファで寝てたの、気を遣ってるつもりだったんだ」
「うん、知ってる」
「でも、Fuuに言われた。それは、居ないのと、ほぼ同じだ、って」

リエは、すこし、目を、見開いた。

「群れの中での居場所はね、何かをすることじゃ、なくて、居ること、それ自体だ、って」
「……うん」
「俺、ずっと、家にまっすぐ帰っても、何ができるか、わからないって、思ってた」
「うん」
「マナの寝かしつけは、リエのほうが、うまい。離乳食も、家のことも、ぜんぶ、リエがまわしてる。俺が早く帰っても、邪魔になる気がして」
「……」
「だから、飲み会、断れなかった」

リエは、何も、言わなかった。
言わずに、ただ、聞いていた。

「ぜんぶ、言い訳だよな」
「……半分は」

リエは、言った。
ぴしゃっ、と、半分。優しくも、厳しくもなかった。事実だった。

「うん、半分は、言い訳。半分は、本当」

リョウスケは、認めた。

「でも、これからは、わからなくても、家にいる、ってことを、ちょっと、やってみたい」
「うん」
「毎日、早く帰る、とは、約束できない」
「うん」
「でも、ソファで寝るのは、やめる」

リエは、頷いた。
頷いてから、すこし、笑った。

「……それ、ちょっと、嬉しい」
「ほんと?」
「うん」

リエの「うん」は、平らじゃ、なかった。
ちゃんと、温度が、あった。


「私からも、言っていい?」

リエが、言った。

「うん」
「私ね、リョウスケに、毎日早く帰ってきて、とは、言わない」
「……」
「私だって、同じ会社にいたから、わかる。仕事って、そういうものじゃない」
「うん」
「でも、ふたつ、お願いがあるんだ」

リエは、指を、二本、立てた。

「ひとつ目。飲み会のときは、何時頃に帰る、って、教えて。それだけで、私の体の警報が、ちょっと、おさまるから」
「……うん」
「ふたつ目」

リエは、すこし、目を、伏せた。

「私が、しんどそうにしてるとき、"大丈夫?"って、聞かないで」
「え?」
「……それ、答えに困るの」
「……」
「"うん、大丈夫"って、言いたくないし、"ううん、大丈夫じゃない"って、言うのも、つらい」

リョウスケは、しばらく、考えた。

「じゃあ、なんて、言えばいい?」
「うーん」

リエも、考えた。
考えて、答えを、探した。

「……お疲れさま、とか?」
「お疲れさま」
「うん。"頑張ってるね"とかでも、いい」
「……OK」

リョウスケは、頷いた。

「それなら、できる」
「……ありがとう」


「あのさ、リエ」

リョウスケが、もう一度、口を、開いた。

「うん」
「俺、リエが復帰するの、ほんとは、楽しみにしてるよ」
「……」
「追い抜かれる、って、ちょっと、思ってる、っていうのは、本当。でも、それは、リエが、優秀だって、ちゃんと、知ってるから、起きる感情だって、Fuuが言ってた」
「……」
「俺、リエが優秀なの、知ってる。それを、ぼんやりさせたく、ない」

リエは、しばらく、何も言わなかった。
言わずに、お茶のカップを、両手で、握った。
お茶は、もう、冷めていた。

「……ありがとう」

リエは、言った。
声は、すこし、くぐもっていた。

「私もね、リョウスケが、会社で頑張ってるの、ほんとは、誇らしいって、思ってる」
「……」
「ただ、最近、それを、思い出す元気が、なかっただけ」

二人は、また、しばらく、黙った。


「未解決のこと、いっぱい、あるよね」

リエが、ぽつん、と、言った。

「うん」
「私のホルモンも、まだ、続くし」
「うん」
「リョウスケの会社の、田中さんも、変わらないし」
「変わらないだろうな」
「うん」

リエは、ちょっと、笑った。

「私たち、課題、解決するの、好きだったよね」
「うん」
「ぜんぶ、解決しないと、気が済まなかったよね、昔は」
「うん」
「今夜は、解決しなかったね」
「しなかった」

リョウスケも、ちょっと、笑った。

「でも」
「うん」
「お互いの状態が、ちょっと、わかった」
「うん」
「それだけで、けっこう、いい気がする」
「うん」

二人は、お茶の、最後のひとくちを、それぞれ、飲んだ。


時計が、十一時を、過ぎていた。

「……寝るか」
「うん」

リエが、お皿を、シンクに、運んだ。
リョウスケも、自分のカップを、運んだ。
二人で、軽く、洗った。

寝室に、戻った。
マナは、ベッドの真ん中で、すーすー、と、寝ていた。

リエが、マナを、ゆっくり、ベビーベッドに、移した。
マナは、起きなかった。

大人用のベッドに、リエが、入った。
すこし、間を、置いて、リョウスケも、入った。
久しぶりに、二人で、同じベッドに、寝る夜だった。

間に、すこし、距離が、あった。
その距離は、まだ、必要な距離だった。
でも、無理に、縮めようとも、思わなかった。


「Fuu、来るかな」

リエが、暗闇の中で、ぽつん、と、言った。

「うーん」

リョウスケは、考えた。

「来ない気が、する」
「私も」

二人は、ちょっと、笑った。

「でも、いつか、また、必要になったら、来てくれるかな」
「来てくれる、と思う」
「うん」

リエは、目を、閉じた。

「……Fuu、ありがとう」

声に、出して、言った。
返事は、なかった。
なかったけれど、なんとなく、聞こえている気が、した。

マナの寝息が、すー、はー、すー、はー、と、聞こえていた。
リョウスケの呼吸も、しばらくして、深くなっていった。

リエは、最後に、目を開けて、暗い天井を、見た。

今夜は、Fuuは、来ない。
来なくても、いい。
明日になったら、また、いろいろあるだろう。
ホルモンも、まだ続くし、リョウスケも明日は普通に出勤する。
ぜんぶ、続いていく。
続いていくけれど、今夜、ふたつの群れが、ひとつの寝室の中に、並んでいる。

それで、十分、だった。

リエも、目を、閉じた。


その夜、ずっと遠くで。

Fuuは、宇宙服のヘルメット越しに、地球を、見ていた。
まんまるの、青い惑星だった。
その表面の、小さな、小さな、ある一点に、Fuuの観察対象の三人が、寝ていた。

「……ふふ」

Fuuは、すこし、笑った。

「人間ってさ、けっこう、自分で、なんとかしちゃうんだよねー」

誰に、言うでもなかった。
Fuuは、観察するのが、仕事だった。
判定はしない。
ただ、見たことを、見たまま、覚えておく。

「リエちゃんと、リョウスケくんと、マナちゃん」

Fuuは、名前を、口の中で、転がした。

「また、会うかもね」
「会わないかもね」
「どっちでも、いいや」

Fuuの、まるい、ピンク色の影が、宇宙の、暗い背景の中で、ゆらゆら、と、揺れた。
それから、ふっと、別の方向に、向きを、変えた。

次の、観察対象の、もとへ。

地球の、あの小さな一点には、もう、Fuuの目は、向いていなかった。
向いていなかったけれど、Fuuは、ちゃんと、知っていた。
あそこに、三人が、寝ていることを。
それで、よかった。

Fuuは、あなたの話も聞いてみたい。

Fuuに相談してみる