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第9話「夫婦の夜」

ミオとタクミ編

「あの、夢の話、なんだけど」
「……うん」
「私、ちょっと、思い出してきた」

タクミは、ソファの上で、姿勢を、少し正した。
テレビの音を、消した。

リビングが、急に、静かになった。

「……うん」
タクミは、もう一度、短く言った。
「聞かせて」


ミオは、自分の膝の上で、両手を組んだ。
言葉を、探した。
探したけれど、簡単には、見つからなかった。

昨日の夜のことを、起きてから、ずっと、思い出そうとしていた。
最初は、何も思い出せなかった。
でも、今日、料理をしたり、洗濯物を干したり、ぼーっとテレビを見たりしている合間に、ふと、一つずつ、断片が、戻ってきた。

「……月が、大きかった」

ミオは、そう言った。

「うん」
タクミは、頷いた。
「俺も、それは、思う」
「そう」
「すごく、近かった」
「うん。手、伸ばしたら、届きそうな」
「……うん」

ミオは、深く、息を吸った。

「で、ね」
「うん」
「誰か、いた」


タクミの肩が、ぴくっと動いた。

「……いた」
「うん。そっち、にも?」
「いた」

二人は、しばらく、お互いの顔を見ていた。

言葉に、するのが、怖かった。
言葉にした瞬間に、それが、嘘になってしまうかもしれなかった。
でも、言葉にしないと、確かめられなかった。

「……どんな、感じ?」
ミオが、おそるおそる、聞いた。
「えっと」

タクミは、少し、口ごもった。

「……まんまる、だった」

ミオの目が、見開いた。

「……まんまる、だった」
「うん」
「……宇宙服、着てた、よね」

タクミの顔から、表情が、抜けた。

「……着てた」
「……」
「……着てた」

タクミは、もう一度、確認するように、繰り返した。


二人は、しばらく、何も言えなかった。

心臓が、どきどきしていた。
ミオは、自分の心臓の音と、タクミの心臓の音が、重なって聞こえる気がした。
もちろん、聞こえているはずは、なかった。

「……顔、覚えてる?」
タクミが、震える声で、聞いた。
「うん」
「……」
「あの、なんか」
「うん」
「……豚、っぽくなかった?」

タクミの口元が、ふっ、と緩んだ。
緩んで、それから、震えた。

「……豚、っぽかった」
「だよね?」
「うん。まんまるの、豚みたいな顔の、宇宙人」
「うん」
「……」
「……うん」

二人は、またしばらく、黙っていた。


タクミは、両手で、顔を覆った。

「……まじか」
「うん」
「同じ、夢、だった、ってこと?」
「……分かんない」
「分かんない、けど」
「うん、けど」
「……同じ、ヤツ、だった」

タクミは、顔を覆ったまま、ふー、と長く息を吐いた。


「ねえ、タクミ」
「うん」
「名前、聞いた?」

タクミは、しばらく、考えた。
思い出そうとした。
ぼんやりとした、記憶の靄の中から、ひとつの音が、ゆっくりと浮かび上がってきた。

「……フー」

ミオは、息を呑んだ。

「……フー」
「うん。そう、名乗ってた」
「私のとこも、フー、だった」

ふたりは、目を合わせた。
声を出せなかった。


「えっ、待って」
タクミが、ようやく言葉を絞り出した。
「ちょっと、整理させて」
「うん」
「……俺の脳の中に、まんまるの、豚みたいな顔の、宇宙服着た、フーって名乗るやつが、来た」
「うん」
「同じやつが、ミオのとこにも、来た」
「うん」
「で、たぶん、俺らに、何か喋った」
「うん」
「……」
「……ねえ」

ミオが、小さく、呟いた。
「タクミ、何、話した?」

タクミは、少し、目を逸らした。

「……あんま、覚えてない」
「私も、ぜんぶは、覚えてない」
「うん」
「でも、断片で」
「うん」
「……稼ぐ、とか、認められる、とか」

タクミの肩が、ぴくっとした。

「……話した、それ」
「うん。私のとこにも、その話、出てきた」
「えっ」
「私が、"測られた気がした"、って言って」
「……」
「フーが、ふーん、って」


タクミは、少しの間、じっと、ミオを見ていた。
それから、言った。

「……俺も、似たこと、話した」
「うん」
「俺も、なんか、"認められてない"、って」
「……」
「言って、たぶん、初めて、自分でそう思ってたって、気づいた」

ミオは、ゆっくり、頷いた。

「私も、そんな感じだった」


「……ねえ、タクミ」
「うん」
「ひとつだけ、確かめたいことが、ある」
「うん」
「……卵焼き、の話」

タクミの手が、自分の膝の上で、止まった。

「……卵焼き」
「うん。あれ、私、フーに、伝えたの」
「……」
「タクミに、"今日、ハルトの卵焼き、甘く焼いたのに"って、伝えてって」
「……」
「フーが、伝えに、行く、って言って」
「……」
「ねえ、タクミ。あなたのところに、フー、何て言って、来た?」

タクミは、しばらく、答えなかった。
答えられなかった。

代わりに、両手を、また、顔に当てた。

「……言ってた」
「……」
「フーが、言った。"奥さんから、伝言があるよ"って」
「……うん」
「で、"今日、ハルトの卵焼き、甘く焼いたのに"、って」

ミオの目から、涙が、ぽろっと、こぼれた。
涙は、自分でも、止められなかった。

「……届いてた」
「うん」
「ちゃんと、届いてた」
「……届いた」

タクミは、自分の手で、自分の顔を、ぐしっと、拭った。


「……俺さ」
「うん」
「あれ、聞いた瞬間、ホテルで、泣いた」

ミオは、何も言わなかった。
ただ、頷いた。

「……なんでだろうな」
「うん」
「……卵焼きの話、なのに、なんで、泣いたんだろう」
「……」
「いや、たぶん、わかる」
「……うん」
「卵焼きって、ハルトのために、ミオが、毎朝、焼いてるやつで」
「うん」
「……それを、俺、ふだん、ろくに見てなかった」
「……」
「ろくに見てないものを、"今日は甘く焼いた"って、わざわざ、伝えてくれたんだなって」
「……」
「……それが、なんか、ぐっと、来た」


ミオは、しばらく、黙っていた。
それから、ゆっくり、言った。

「……私もね、伝えてって言った瞬間、自分でびっくりした」
「うん」
「もっと、言いたいこと、あるはずなのに」
「うん」
「怒ってる、とか、寂しい、とか、いろいろ、あるはずなのに」
「うん」
「……出てきたの、卵焼き、だった」
「……」
「たぶん、私も、卵焼き、で、いっぱいだったんだと思う」
「うん」
「……毎日、毎日、ハルトのために、卵焼き焼いて」
「うん」
「ちゃんと、見てもらえてないんじゃないか、って、ずっと、心の底で、思ってたんだと思う」


タクミは、ソファの上で、ミオの手を、そっと、握った。

いつぶりだろう、と、ミオは思った。
手を、握られたのは。
ハルトを抱っこしたり、夫婦の写真を撮ったり、そういう「機能」のある接触はあった。
でも、ただ、握る、という接触は、たぶん、ものすごく、久しぶりだった。

タクミの手は、少し、汗ばんでいた。

「……見てる」
タクミは、言った。
「これからは、ちゃんと、見る」

ミオは、頷いた。
頷いたら、また、涙が、こぼれた。

「私も」
「うん」
「私も、タクミのこと、ちゃんと、見る」
「うん」
「"稼いでる"、って言葉に、勝手に傷つかないで」
「……いや、あれは、俺が、悪い」
「ううん。私も、悪い」
「俺が、悪い」
「私も、悪いの」

ふたりは、少し、笑った。
譲り合いの、奇妙な、けんかだった。


しばらくして、タクミが、ふと、言った。

「……あいつ、何だったんだろうな」
「フー?」
「うん」
「ほんとに、宇宙人?」
「分かんない」
「夢、だったのかな」
「夢、だったのかも」

タクミは、窓の外を見た。
月が、出ていた。
昨日より、少し、小さかった。

「でもさ」
「うん」
「夢だとしたら」
「うん」
「ふたりで、同じ夢、見たってことになる」

ミオは、笑った。

「そうだね」
「同じ夢、見て」
「うん」
「同じ、伝言、聞いて」
「うん」
「……それって、たぶん、夢じゃないってこと、なのかも」
「……うん」


ミオは、ゆっくり、タクミの肩に、頭を預けた。

タクミは、それを、自然に、受け止めた。

ふたりとも、何も、言わなかった。
言葉は、もう、必要なかった。


遠く、とても遠く、地球の周回軌道のあたりで、
Fuuは、宇宙服の中で、ふっと笑った。

まんまるの顔が、ヘルメットの中で、ちょっとだけ、嬉しそうだった。

「人間って」
「ほんと」
「おもしろいわ」

Fuuは、それから、ゆっくりと、視線を、別の方角に向けた。
遥か遠くの、別の街の、別の家の方へ。

観察対象は、いつも、たくさん、いた。

「……さて、と」

Fuuは、伸びをして、宇宙服のヘルメットを、ぽんっと叩いた。

「次、行くか」

Fuuは、あなたの話も聞いてみたい。

Fuuに相談してみる