第10話「Fuu、次の家族へ」
ミオとタクミ編
ハルトを起こして、朝ごはんを食べさせて、学校に送り出して。
タクミは、いつも通り、八時前には家を出た。
いつも通り、と言いたいけれど、少し違った。
タクミは、玄関で、ミオに、いってきます、と言った。
ミオは、いってらっしゃい、と返した。
それだけのことが、何年ぶりかだった。
最近は、お互い、ばたばたしていて、玄関で顔を合わせない朝が、ほとんどだった。
タクミが出ていったあと、ミオは、ドアの前に少し立った。
昨日のような、重たい立ち止まり方ではなかった。
なんとなく、もう少し、その余韻に、立っていたかった。
ミオは、リビングに戻って、コーヒーを淹れた。
窓を開けた。
春のような、初夏のような、どっちつかずの、けれど気持ちのいい風が、入ってきた。
ミオは、ソファに座って、コーヒーを一口飲んだ。
ふと、思った。
昨日の夜のあの感じ、夢じゃなかったんだろうか。
タクミと、ふたりで、フーの話をしたこと。
手を、握られたこと。
肩に、頭を預けたこと。
全部、夢、みたいだった。
でも、ローテーブルの上には、ふたつのワイングラスが残っていた。
夢じゃなかった、という証拠が、ちゃんと、そこにあった。
ミオは、目を閉じた。
「……ありがとう」
誰に、言ったのかは、自分でも、よく分からなかった。
でも、なんとなく、誰かに、言いたかった。
遠く、とても遠く、地球の周回軌道のあたり。
Fuuは、宇宙服の中で、まんまるの体を伸ばした。
ヘルメットの内側が、少し、曇っていた。
Fuuは、それを、ぐいっと拭った。
「うん、いい感じ」
Fuuは、観察記録らしきものを、手元の、何か、薄い板みたいな道具に、ちょっと、書き込んだ。
「えーっとね」
Fuuは、独り言のように、つぶやいた。
「地球の、人類、っていう生き物はね」
「面白くてさ」
「言葉、いっぱい持ってるくせに、いちばん大事なこと、言葉にできなくて」
「ぐるぐるしてるんだよね」
「で、ぐるぐるしてるうちに、相手のこと、勝手に、誤解しちゃう」
「お互い、好きなのに」
「お互い、相手のために、何かしてるつもりなのに」
「ぜんぜん、伝わってない」
Fuuは、ふっと、笑った。
「でもね」
「ちょっとだけ、誰かが、間に入ってあげるとさ」
「びっくりするくらい、するっと、繋がるんだよね」
「もともと、繋がってたんだろうな、たぶん」
「ただ、糸が、絡んでただけで」
Fuuは、宇宙服のヘルメットの中で、もう一度、地球の方を見た。
青い星だった。
雲のあいだに、海が見えた。陸が見えた。光の粒が、たくさん、散らばっていた。
その光のひとつひとつに、家族がいて、夫婦がいて、カップルがいて、たぶん、いろんなぐるぐるがあった。
「卒論、まだまだだな」
Fuuは、まんまるの体を、ぐっと縮めて、また伸ばした。
「サンプル、もっと、いるな」
「あ、そうだ」
Fuuは、手元の薄い板を、ちょっと操作した。
地球のどこかの、ある一点が、ふわっと、光った。
別の街の、別のマンションの、ある一室。
そこには、ある若いカップルが、いた。
ふたりは、昨日、些細なことで、口論をしていた。
ふたりとも、それぞれの理由で、傷ついていた。
でも、それを、相手に、うまく、言葉にできずに、
今夜、それぞれ、別の枕で、眠ろうとしていた。
Fuuは、それを、しばらく、じっと、見ていた。
「ふーん」
「そうなんだぁ」
Fuuは、ぽつりと、呟いた。
それから、ヘルメットの中で、にこっと、笑った。
「ちょっと、行ってみるか」
Fuuの体が、ふわりと、地球の方へ、向きを変えた。
その途中、もう一度、最初の街の方を、ちらっと、振り返った。
ハルトが、学校の教室で、ノートを取っていた。今日は、ちゃんと、宿題を出していた。
ミオが、洗濯物を干していた。鼻歌を、歌っていた。
タクミが、会社の打ち合わせ室で、後輩に、何かを、丁寧に教えていた。
Fuuは、それを見て、満足そうに、頷いた。
「うん、もう、大丈夫」
Fuuは、誰にともなく、言った。
それから、別の街の、別の窓の方へ、ゆっくりと、漂っていった。
その夜、ミオが、ふと、窓を開けた。
春の風が、入ってきた。
月は、もう、いつもの大きさに、戻っていた。
ミオは、なんとなく、空を見上げた。
星が、ぽつぽつ、見えた。
ひとつ、流れた気がした。
でも、よく見たら、ただの飛行機の光だったかもしれなかった。
ミオは、少しだけ、笑った。
窓を閉めて、リビングに戻った。
タクミが、ハルトに、宿題を見てやっていた。
ハルトは、ぶうぶう文句を言っていた。
タクミは、笑いながら、消しゴムを貸していた。
ミオは、その光景を、しばらく、ドアの前で、見ていた。
地球の、ある一室では、これから、新しい物語が始まろうとしていた。
ある若い女が、眠りに落ちようとしていた。
その瞼の裏に、まんまるの、豚みたいな顔の、宇宙服を着た何かが、ふわりと、現れた。
「やあ」
拍子抜けするくらい、軽い声だった。
——おしまい——
Fuuは、あなたの話も聞いてみたい。
Fuuに相談してみる