第7話「昼のLINEと、それから」
ミオとタクミ編
午前中、ミオは何も手につかなかった。
洗濯機を回した。それは覚えている。
でも、その後、洗濯物を干したかどうか、思い出せなかった。確かめに行ったら、ちゃんと干してあった。覚えていないのに、体が勝手にやっていた。
掃除機をかけようとして、コンセントの前で止まった。
代わりに、テーブルを拭いた。三回、拭いた。
時計を見た。
十一時四十二分。
昼休みは、何時だろう。
タクミの会社の昼休みは、十二時から十三時のはず。たしか。
いや、最近、変わったかもしれない。フレックスとかになったって、いつか言っていた気がする。
ミオは、スマホをテーブルに置いて、その前に座った。
じっと、画面を見ていた。
画面は、暗いままだった。
タクミは、商談を終えて、駅のホームに立っていた。
商談は、自分でも驚くくらい、いつも通りにこなせた。
頭は別のことでいっぱいなのに、口は勝手に営業トークを続けていた。先方からは、好感触をもらった。
ありがたかった。今日は、それくらいのご褒美があってもよかった。
駅の時計が、十二時十五分を指していた。
ホームのベンチに座った。
スマホを取り出した。
LINEで電話するのが、なんとなく、躊躇われた。
画面を見られたら、嫌だった。何の画面か、自分でも分からなかったけれど。
タクミは、駅の構内を歩いて、人気の少ない端まで来た。
階段の踊り場の、エレベーターの横。
ここなら、誰も通らない。
深呼吸を、した。
LINEの「電話」を、押した。
ミオのスマホが、震えた。
心臓が、跳ねた。
二回、三回鳴ってから、スワイプした。
あえて、すぐには出なかった。すぐに出ると、待っていたみたいで、嫌だった。
待っていたんだけど。
「……もしもし」
「あ、ミオ?」
「うん」
「……あ、ごめん、出てくれて」
「ううん」
沈黙。
お互い、言葉が続かなかった。
タクミは、駅の構内のアナウンスを背景に、何か言わなければと思いながら、何も言えなかった。
ミオは、リビングのソファの上で、膝を抱えて、何か言わなければと思いながら、何も言えなかった。
「……えっと」
先に、タクミが言った。
「うん」
「あの、昨日は」
「うん」
「……ごめん」
簡単な言葉だった。
簡単な言葉なのに、出てくるまでに、何時間もかかった気がした。
ミオは、しばらく、何も言わなかった。
「……うん」
ミオが、ようやく言った。
「私も」
「え?」
「私も、ごめん」
タクミは、あ、と小さく言った。
なんで自分があ、と言ったのか、自分でも分からなかった。
「あのさ」
「うん」
「今日、早く帰る」
タクミの声は、いつもより少し、低かった。
「残業、ない?」
「ある。でも、明日に回す」
「いいの?」
「うん。回せる」
ミオは、息を、ゆっくり吐いた。
「……うん」
「うん」
「待ってる」
また、沈黙があった。
今度の沈黙は、さっきの沈黙とは、少し違っていた。
気まずい沈黙ではなくて、もう、言うことがない沈黙だった。
「あの、ミオ」
「なに」
「……変なこと、聞いていい?」
「変なこと?」
タクミは、少し、躊躇った。
「昨日……夢、見なかった?」
ミオは、画面を、ぎゅっと握った。
「……夢?」
「うん。なんか、すごい、不思議な夢」
ミオの心臓が、また、跳ねた。
「……見た、かも」
「……」
「思い出せない、けど。誰かと、長く話した気がする」
タクミは、しばらく、黙っていた。
駅のアナウンスが、遠くで聞こえた。
「俺も」
「……うん」
「俺も、思い出せない。けど、見た気がする」
「……うん」
二人は、しばらく、何も言わなかった。
言葉にすると、嘘になりそうだった。
でも、お互いが「同じ何か」を経験した、ということだけは、伝わった気がした。
「……夜、ちゃんと話そう」
タクミが言った。
「うん」
「ハルトが寝てから」
「うん」
「あ、ハルト、今日、何時に寝る?」
「……いつも通りなら、九時くらい」
「分かった」
ミオは、少し、笑った。
なんで笑ったのか、自分でも分からなかった。
たぶん、タクミが、ハルトの就寝時間を聞いてきたことが、嬉しかったんだと思う。
「あと、タクミ」
「ん?」
「……今日、卵焼き、また焼くね」
「……」
「甘いやつ」
タクミは、しばらく、何も言わなかった。
返事の代わりに、深く、息を吸う音がした。
「……うん」
「うん」
「……うん、頼む」
タクミの声は、ほんの少しだけ、揺れていた。
電話は、それで切れた。
ミオは、しばらくスマホを耳に当てたまま、動かなかった。
タクミは、しばらくホームの端で、スマホを耳に当てたまま、動かなかった。
ふたりとも、自分が今、笑っているのか、泣いているのか、よく分からなかった。
遠く、とても遠く、地球の周回軌道のあたりで、
Fuuは、宇宙服の中で、ぱちぱちと小さく拍手をしていた。
「うんうん」
「いいよいいよ、その調子」
誰にも聞こえない声で、Fuuはひとり、頷いた。
それから、ふと、思い出したように呟いた。
「……卵焼き、ね」
まんまるの顔が、少しだけ、嬉しそうだった。
「人間って、ほんと、おもしろいわ」
Fuuは、あなたの話も聞いてみたい。
Fuuに相談してみる