第5話「タクミ、Fuuと出会う」
ミオとタクミ編
タクミは、夢を見ていた、と思う。
たぶん、夢だった。でも、夢にしては、枕の下のジャケットの硬さが、やけにリアルだった。
目を閉じているのか、開いているのか、分からなかった。
天井のシミが、見える気もしたし、見えない気もした。
そのまんなかに、ふわりと、何かがいた。
「あ、やっと寝た」
声がした。
タクミは、反射的に身を起こそうとした。起きなかった。
体が動かないのではない。起きるのが、億劫だった。
「……誰」
「俺、Fuu」
「……は?」
視界が、ゆっくりピントを結んだ。
まんまるの、何かが、浮いていた。
豚、みたいな顔だった。宇宙服を着ていた。
タクミは、しばらくそれを、まじまじと見ていた。
「……疲れてんのかな、俺」
「まあ、そう思うよね」
「夢、ってことで、いい?」
「いいよ、いいよ。そのほうが気楽でしょ」
Fuuは、宇宙服の中で、あぐらをかくように体を丸めた。
タクミは、妙に納得して、それ以上追及しなかった。
「……で、なに?」
「いや、なんか、きみのこと、ちょっと気になっちゃって」
「俺?」
「うん。さっき、奥さんと、喧嘩したでしょ」
タクミの眉が、ぴくっと動いた。
「……見てたのかよ」
「ごめん。覗くつもりはなかったんだけどさ、たまたまさ」
「たまたま、って」
「観察対象で。地球人類の、夫婦、っていう関係性の」
タクミは、何か言おうとして、やめた。
疲れていた。
夢にツッコミを入れるだけのエネルギーがなかった。
「……で?」
「いや、ただ、話しかけてみたくて」
「話すことない」
「そう?」
Fuuは、ふわりと、タクミの顔の近くまで浮いてきた。
「きみさ、疲れてるね」
タクミは、すぐには返事をしなかった。
代わりに、天井のシミを見た。
「……うん」
「だよねー」
「……」
「きみ、疲れてる、って、奥さんに、言った?」
タクミは、少し黙った。
「……言ってない」
「なんで?」
「……言ったって、しょうがないだろ」
「ふーん」
「きみさ、ひとつ聞いていい?」
「……」
「家、出るときに、何考えてた?」
タクミは、目を閉じた。
数時間前の自分が、玄関でジャケットを掴んだときの感触を思い出そうとした。
思い出そうとしたけれど、うまく像を結ばなかった。怒りだったのか、悔しさだったのか、ただの逃避だったのか、自分でもよく分からなかった。
「……わからん」
「ふーん」
「ただ、"ここにいたら、もっとひどいこと言う"って思った」
「へ〜」
「だから、出た」
Fuuは、少し黙って、それから、言った。
「きみ、やさしいね」
タクミは、思わず、鼻で笑った。
「は?やさしかったら、家出ないだろ」
「んー、そうかな」
「そうだろ」
「でも、"もっとひどいこと言わないように"出たんでしょ」
「……」
「ひどいこと言わない、って、奥さんのこと考えてたってことじゃん」
タクミは、何も言えなかった。
「ふーん、そうなんだぁ」
Fuuは、ひとりごとみたいに、そう言った。
しばらく、沈黙があった。
タクミは、ベッドの中で、腕を組んで天井を見ていた。
「……さっき、余計なこと、言った」
「うん?」
「"稼いでるのは何のためだよ"、って」
「あー、うん」
「あれ、出た瞬間に、"あ、やっちゃった"って思った」
「へ〜、出た瞬間に分かってたんだ」
「分かってた」
「じゃあ、なんで言ったの?」
タクミは、答えに詰まった。
「……向こうが、俺のこと、分かってない、って思った」
「うん」
「俺だって、ちゃんと、家族のこと、考えてるんだよ」
「うんうん」
「考えてるから、毎日遅くまで働いて、」
「うん」
「稼いで、家に入れて、」
「うん」
「……それが、なんていうか、"認められてない"、って、感じた」
Fuuは、うん、うん、と頷いていた。
うんうんの間隔が、ミオのときより、少し長かった。タクミが言葉を探す時間を、待っている感じだった。
「たぶんさ」
「うん」
「俺、"ありがとう"、って、言ってほしかったんだと思う」
「……へ〜」
「言ってから、自分でびっくりしてんだけど」
「だよねー」
「でもさ」
Fuuは、ゆっくり言った。
「奥さん、今日、ずっと、ひとりでハルトくんのこと考えてたって」
「……ひとりで?」
「うん。担任から電話来てから、きみが帰ってくるまで、ずっと」
「……」
「で、きみが帰ってきて、話した。で、"そのうちやるでしょ"、って返ってきた」
タクミは、枕の下のジャケットを、ぎゅっと握った。
「……それは」
「うん」
「……俺も、疲れてたから」
「だよねー。疲れてたよね」
「……」
「でもさ」
Fuuは、ちょっと目を細めた。
「疲れてたの、奥さんも、同じだったかもね」
タクミは、しばらく、動けなかった。
「あとさ、ひとつ、伝言があってさ」
「……伝言?」
「うん。奥さんから」
タクミは、顔を上げた。
「……ミオが、なんて?」
Fuuは、ふっ、と笑った。
それから、ゆっくりと、言った。
「"今日、ハルトの卵焼き、甘く焼いたのに"、って」
タクミは、動けなかった。
しばらく、言葉が出なかった。
それから、じわじわと、鼻の奥が熱くなった。
目頭が、じん、と痛くなった。
「……なんだよ、それ」
「うん」
「……なんだよ、それ」
タクミは、もう一度、同じことを言った。
声が、少し、掠れていた。
Fuuは、何も言わずに、ただ、隣にいた。
タクミは、枕に顔を押し付けた。
ホテルの、薄い、固い、枕だった。
その下には、畳んだジャケットがあった。
三十八歳の男が、五千八百円の部屋で、枕に顔を押し付けて、少しだけ泣いた。
誰にも見られていなかった。
Fuuには、見られていたけれど、Fuuは、見ていないふりをしてくれた。
タクミが、ふう、と息を吐いた頃には、Fuuの姿は、少し薄くなりかけていた。
「……もう、行くのか」
「うん。そろそろね」
「……」
「あ、そうだ」
「なに」
「明日さ」
「うん」
「奥さんに、電話、してみたら?」
タクミは、何も言わなかった。
でも、小さく、うなずいた気がした。
Fuuは、ふわりと、消えていった。
消える前に、ぽそっと、言った。
「人間って、ほんと、おもしろいわ」
Fuuは、あなたの話も聞いてみたい。
Fuuに相談してみる