第2話「ふたつの部屋」
ミオとタクミ編
ミオはソファに座ったまま、時計の音を聞いていた。
テーブルの上の卵焼きは、もう見ないことにした。
立ち上がって、廊下を歩く。足音を立てないようにした。
ハルトの部屋のドアを、少しだけ開ける。
豆電球のオレンジの下で、ハルトは口を半分開けて眠っていた。掛け布団は例によって蹴り飛ばされていて、パジャマが少しめくれていた。
ミオは、布団をそっとかけ直した。
「……ごめんね」
誰に言ったのか、自分でも分からなかった。
リビングに戻って、今度はソファに横になった。
目を閉じると、さっきの自分の声が聞こえる。
「そういう話じゃない!!」
ほんとうは、どういう話だったんだろう。
分からなかった。考えようとすればするほど、うまく像を結ばなかった。
タクミは、駅前のロータリーを二周していた。
一周目で、公園のベンチを思い出した。学生のころ、終電を逃して寝たことがある。寝袋もなしで、ジャケット一枚で、ぶるぶる震えて朝を迎えた。
二周目で、それを却下した。明日、十時から商談がある。スーツが皺になるのはまずい。何より、相手に会う前に自分の顔を鏡で見たくない。
スマホで地図を開いた。
「ビジネスホテル 安い」
五千八百円。朝食なし、禁煙シングル。レビューは三・二。迷った末に、予約ボタンを押した。
歩きながら、自分でも少しおかしくなった。
啖呵を切って家を出てきたのに、やっていることは一番安い部屋の検索だ。
部屋は、想像よりもう一段階、狭かった。
ユニットバスの扉がベッドに当たりそうだった。壁紙には前の宿泊者のものらしい小さな染みがあった。エアコンが、何かが詰まったような音で回っていた。
タクミはスーツのまま、ベッドの端に座った。
ネクタイを外し、丁寧に畳んで枕元に置いた。こういうときだけ、やけに几帳面になる自分が、嫌だった。
スマホを見る。
LINEは、開かないままにしておいた。
開いたら、何か言わなければいけない気がした。
今、何を言っても、ろくなことにならない気がした。
天井を見上げる。シミがひとつ、端のほうにあった。
「考えてるよ」
あの言葉は、出てしまった。
「仕事しながら」
この言葉は、出さなければよかった。
順番を間違えたな、と思った。
ミオは、いつの間にかソファで眠りかけていた。
毛布もかけずに丸まっていて、首がすこし冷たかった。
起き上がる気力がなかった。
目を閉じたまま、さっきのタクミの顔を思い出そうとした。
ドアを閉める前の、あの顔。
怒っているように見えた。でも、よく見ると、泣きそうにも見えた、かもしれない。
タクミは、電気を消してベッドに潜り込んだ。
枕が薄かった。ジャケットを枕の下に畳んで入れた。すこしマシになった。
目を閉じる。
ミオの顔が浮かぶ。
「考えて"ほしい"って言ってるの」
あの声の、震え方。
気づかないふりをしてきたことが、いくつかある気がした。
たぶん、いくつも。
同じ夜、別々の場所で、ふたりは眠りに落ちた。
ミオはソファで、首を冷やしたまま。
タクミはビジネスホテルで、枕の下にジャケットを敷いたまま。
どちらの部屋の窓からも、同じ月が見えていた。
妙に、大きかった。
そして——
ふたりの意識が、ゆっくりと暗い水の底に沈んでいくその瞬間、
どこか遠く、とても遠くで、何かが、こちらを見ていた。
Fuuは、あなたの話も聞いてみたい。
Fuuに相談してみる